【Conflict(対立)=OPPORTUNITY(チャンス)】
アウトプットフェス開催中。
ヨーロッパで大人気のNVCトレーナー、ヨラムのセッションを今日からアウトプットしていきたいと思います。(数日かかりそう。がんばる!)
翻訳してくださった方に、ほんまにほんまにほんまに感謝!!
もうめちゃくちゃうれしいギフト!!
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では、早速アウトプットに行きたいと思うのですが、
Conflict(対立)=OPPORTUNITY(チャーンス)!!
なんて思っている人は世の中には、そんなに多くはないのでは?できればみんな対立なんて避けたいんじゃないかな?
【対立の中でつながりの対話】
がテーマのセッション。もうね、このセッション最初の20分でヨラムと参加者の「正直さ」の対話に満たされてすぎて、もう20分で動画見るのやめようかと思いました。笑
セッションが始まってすぐに、
「知っている顔をみるとホッとするけど、知らない顔を見かけるとストレスがやってくる、彼らは僕を好いてくれるのだろうか、僕のあり方をわかってくれるだろか。僕は自分のことがあまり好きじゃないんだ。」
と、今自分の内側に起こっていることを、ありのまま言葉にして伝えるヨラム。
わたしは半年前に初めてヨラムセッションを受けた時、ファシリテーターである彼がこのように話すことに驚いたし、同時に心も打たれた。
だって、わたしの育った文化では、先生とか上司とか親とかは、自分の弱い部分を打ち明けたり、無防備なところを見せたりしなかった。そんなものは見せたらダメだ、常に強い姿を見せておかないといけないんだ、って誰かに言われたわけではないけれど、そう見て学んでいた。
だからわたしは若い頃、常に強気でポジティブオンリーで生きていて、弱音を吐く男性には「うわぁームーリー…」って思ったし、彼氏がいなくて寂しいという女性にも「なにいうとんねん。男おらんくらいで。しっかりせぇ。」とゲンナリしていた。(今は変わりましたよ!笑)
さらに、ヨラムの参加者を前に「ストレスがくる」という表現は、日本人の感覚だとかなり衝撃かもしれない。少なくともわたしには。
でも「同じ人間」なのである。
なので、このヨラムの言葉に、
「それを聞いて安心したよ!」
「先生のような人を前にすると自分を小さく感じてしまうことがあるから、ホッとしたよ。」
「無防備さがギフトだと感じて感動した!」
と伝える参加者たちが多かった。
しかし、違うことを伝えた人がいた。話すことが怖いけれど…というのを前置きして。わたしはドキドキした。。
「少し嘘っぽく感じた。演じているんじゃないか?参加者に近づくための『やり方』なんじゃないか。あなたとのつながりが断絶した。私たちみんながあなたを認めて自分を安心させようとしたよね。これは本物のヨラムなの?この無防備さは本物なの?」
(かなりかなり圧縮してひとつにまとめましたが、やりとりは何度か続いた上での会話です。)
「こうしてこのような声をあげたことに、自分に対しても批判の声が湧き起こっている」
ともその参加者は話していた。
100人を超えるセッションで、こんなにも「正直」な声をあげるってとてつもない勇気とエネルギーを使うし、怖いだろうし、どう思われるか不安でいっぱいだろうし、わたしも心を震わせながらオロオロ見守っている感じだった。
(録画であっても臨場感の凄さ。というかわたしの映画でもなんでも画面の中にすぐ入り込み、すぐオロオロする性格なだけかも。。)
そして、ヨラムが今回のテーマが「対立の中でつながる」であって、まさに今ヨラムと参加者で「対立」が起こっているということで、そのまま対話が続けられた。
そして参加者から出てきた言葉は、
「わたしはファシリテーターとしてではないヨラムに出会いたかったの。」
と。。。
もうここにすべて込められている。。
(あぁ… 本当この20分だけでも見て欲しいくらい!圧縮の圧縮やから伝わっていない気がして仕方がない!そして翻訳された日本語のスウィートさよ♡言ってみたいセリフに入れておこう。そんなリストないけど笑 )
ということで、20分で満足して終わろうとしたのですが、休憩して満たされたまましばらくボーッとして、続きを見ました。
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「対立を減らしたい」ってNVCを学ぶ人たちがいる。でもそれは逆で、正直になる分、対立はもっと増える。
ヨラムは対立が人をバラバラにすると、人生のかなり早い段階で学んだ。これを話そうとすると涙が溢れると話した。
対立がとても怖かった。
対立を避けていた。
怒りが怖かった。
とにかく調和を求めた。
その分、正直さを失い、死んだようだった。
これを書いているだけで、わたしも同じように涙が溢れてくる。。
自分の中で起きていることを声に出すのが「怖い」と感じることがよくある。
愛する人の前で、自分の中に湧き起こっていることを怖くて言い出せないことがある。
「正直さ」は親密さを探求する上で、とても意味があること。正直さがなければ、そこに居ることにならない。そしてそこに親密さも生まれない。
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なるほど。
ココでわたしの話なのですが、今朝、一つ前のnoteで感謝のジャーナルに書いたこと↓
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わたしは家事の中で洗濯を畳むのが一番苦手。
本当は畳みたくない。
それを夫に話すと「畳まなければいいだけじゃん。じゃあカゴでも買って乾燥機からそこに入れておいて、そこから取り出して着てねって紙でも貼っとく?」と言ってくれたこと、
わたしが「洗濯物はきれいに畳んでタンスにしまわなければならない」と思い込んでいることに気づかせてくれることに、感謝します。
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と書いたんですね。
これ、わたし「洗濯物畳むのが苦手。本当は畳みたくない。」って、結婚してから初めて言ったんです。もう次の春で結婚して10年ですよ?
でも、乾いた洗濯物が溜まるたびに、湧き起こる気持ちを言えなかった。たったそれだけの言葉が怖くて言えなかった。10年近くも。
そこには書いてあることよりも、もっともっとたくさんあって、
・母が毎日洗濯物をくしゃくしゃにならないように、取り込んだらすぐに畳んでいたこと。そうでないといけないものなんだって勝手に思っていたこと。
・本当はなにも言わなくても、夫が気づいて畳んでくれたらいいのになぁ…ってどこかで期待をしつつ、そういうことはほぼなかった。「そらそうだ、洗濯物は専業主婦のわたしが畳まなければならないものだ」って再確認するような感覚だった。
(でも勇気を出してお願いしたら、すんなり夫はやってくれるんだけれどね。でも本当年に数回しか言えない。これも声にするのが怖かったから。)
・小さい頃、姉とどっちが洗濯物を畳むのがうまいか、母に勝敗をつけてもらうという勝負をした。でも圧倒的に自分が下手で、もうわたしは畳みながら負けが確実に決まっていて泣きそうになっていた。
それでも「どっちがうまいかなんて選べへんわ。どっちもすごくうまいよ、ありがとう。」と母は言ってくれた。
明らかにわたしの方がグチャグチャで、姉のはピシッと畳めている。わたしは母に気を遣わせてしまったこと、嘘をつかせてしまったことが、とてもとても悲しかった。そして、もちろん姉も納得がいっていなくて、勝って素直に喜びたかったはずなのに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
自分の下手な残念さと、悲しさと、申し訳なさでパンパンで、その後ずっと居心地がわるかった。もしかしたらあっさり負けて大泣きした方が、スッキリしたかもしれない。わからないけれど。
そこから洗濯物を畳むというのはわたしにとって苦手意識が高く、心地のよいもの、心地の良い時間ではなくなってしまったのだ。畳むたびに思い出すからである。
常に調和を求め、常に自らの正直さを失くし、自分の心の声を聞かずに出さずに生きてきたわたしは、
愛する人の前で、自分の中に湧き起こっていることを怖くて言い出せないことがある。
ヨラムのおっしゃる通りなのでした。
そして、
正直さがなければ、そこに居ることにならない。そしてそこに親密さも生まれない。
とも言っていたんだけど、まさに少しずつ正直さを取り戻してきたわたしは、また若い頃とは違った質感の親密さもどんどん生まれ出している感覚でいる。(今さらだけど!笑)
では、つづきはまた明日。
ハートフルな一日を♡
また明日ココで♡
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(追記)
つづきを書きました。