どのストーリーを生きたいのか?いつだって選べる主体は自分の中にある。
昨日のnoteがいつもより反響が大きくてちょっとビックリ。(反響が大きいとビビります笑)
そして、このDeepな共感を受けたあと、ここ1ヶ月くらいで一番身体が軽くなりった。以前、サラペイトンさんの講座【脳科学と共感ーパンデミックによる不安のただなかで、自分と周りを大切にする】を受けたときにおっしゃっていたことを思い出した。
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《不安とともにやってくる異なる症状》
今回のわたしの場合は、全体が重い、だるい、朝が起きるのが辛い、表情を作るのがしんどい、肺・心臓あがりがモヤがかかっているような感覚、だった。
→これらの症状は「受け取ってもらえていない」メッセージを身体が抱えている
と、サラは教えてくれた。
①誰かに話すことで、感情が身体から脳に上がってくる→その感覚を体で感じる。
昨日のわたしは話しているときは心が落ち着かなく、なんかギュッと締め付けられるような感覚、小刻みに心は震えているような。そして、思わず深く息を吸い込み、身体がぶるぶるっと震えて、ふぅぅぅーーーと息を吐いた。
②みんな(誰か)に名前(感情やニーズ)をつけてもらう。
人間がこわかった…
でもわたしは、人を信じたいんだ…
ロックダウンの命令をする人たちの家族のこと、取り巻く環境や、生活を知りたい、そして理解したい。ロックダウン命令に関わらず外へ出て過ごしている人たちを取り巻く環境や、その人のその人生を知って、理解したい。そして、どんな選択をしている人も、その人たち一人一人の存在・命を大切にしたい、信じたい。わたしはすべての人の命を大切にしたい、信じたいんだ。
そうやって名前をつけることができた。
③リラックスできる。
身体がここ最近で一番軽くなり、ぐっすり眠れて、朝も自然とスッキリを目が覚めた。
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「身体に何か症状が出るのは、受け取ってもらえていないメッセージがある」
まさにサラが言っていたことだ… と身をもって体感した瞬間だった。
そして、
「どんな選択をしている人も、その人たち一人一人の存在・命を大切にしたい、信じたい。」
と、その自分の心の奥底にある声に気づいたとき、せいちゃんが講座で話してくれたマーシャル(NVC創始者)の友人が銃を突きつけられたときの話を思い出した。
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友人:「僕には選択肢がないときもあったよ。銃を突きつけられて、服を脱げって言われた。それを、断ることなんてできない、自分で選択する余地なんてどこにあったんだ?」
マーシャル:「いやぁ、結構ハッキリしてると思うけどね。服を脱ぐって選択をしたんじゃないの?自分で選んでそれをするってことでしかないよね。」
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選ぶことはどこまでもできる。
そこで服を脱いだとしても、なぜそれをするのか?
「なす術もなくそうしなきゃいけなかったんだ」
と思うのか。
「わたしは自分の安全を守るためにそれを選ぶんだ」
と思うのか。
ストーリーはすべて自分で選べるはずだ。
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ハッとした。。
外出禁止が命令だったとしても、家から出る・出ないを「選択」しているのは私自身なんだ、ということに。そしてわたしと同じ行動をしていない人たちも、その人たち自身が選んでいるんだ。
わたしが外出禁止と言われて、家にいる選択をするは、
「政府に命令されているから」
ではなく、
「自分の安全を守りたい、旦那さん、子供たち、大切な人たちの大切な命を守りたいから。」
だからわたしは外に出ないという選択を自分でしているんだ。
これがNVCの見方、生き方。
誰のせいでもない、ストーリーはすべて自分で選んでいる。そして、いつからでも、どこからでも、どこまでも自分で「選べる」という【希望】を感じた。
「そのストーリーを生きたいのか?」
「どのストーリーを生きたいのか?」
いつだって選べる主体は自分の中にある。
「それはちょっと厳しくも聞こえるかもしれない、そして、とても勇気のいることではあるんだけど、自分はどんな人生を生きたいのか、どんな世界をつくりたいのか、それ自体がNVC。NVCを生きるということなんだよ」と、せいちゃんが話してくれた。
これらのことに気づき、眠りについた翌日。
わたしの内側は昨日とは別のもののようだった。
わたしは子供と遊ぶのが元々あまり得意ではない。子供たちはもちろん可愛い。でも「子供と過ごす時間をコロナが与えてくれたんだ」「こんな貴重な機会もうないよ。」と話している人たちを見ていても、わたしはそう思えなかった…
SNSでオンラインで子供達とクラフトしましょう!お菓子作りましょう!とか、たくさん流れてくるだけで正直しんどかった。勝手にだけどプレッシャーを感じてた。そしてそれらを心から「わたしも子供たちとしたーい!」と思えない自分も辛かったし、悲しかった。。
今このロックダウン生活で家からも出ず、友達とも会えず、慣れない英語のオンライン授業のこともわたしにとっては結構負担で辛くて、誘拐大国アメリカで子供たちの運動にも「いってらっしゃーい」とはできない、毎日連れて行く。外には警察の車がくるくる回っていて、外にいるときも「コレはセーフ?」「今の人と距離が近かったかな…」「ベンチは座っちゃダメだけど、水筒は置いていいのかな…」と常に見張られてるようで、気をつけていたり…
そんな状況で、もう自分が生きるだけで精一杯だったんだなって。。
日に日にマズローの5段階欲求の底辺に下がっていく感覚…
それでも、なんとか自分が壊れないように家事を手を抜いて、テレビやYouTubeにも頼って、子供たちには生きる最低限(食・少しの運動)のことだけをして。。
それでいい、わたしはわたしでいいって思っていても、一般的なイメージの「理想のお母さん」からは遠くかけ離れたようで、チクチク刺さるトゲは増えていく… これが痛いんだ… 自分のやっていることを信じることができていなかったんだと思う。
そう、そんな状態だったんだ。
でも、本当に今この講座を受けていてよかった。共感バディをしたことで、受け取ってもえて、名前をつけてもらえただけで、いろんなことがわたしの中で起こった。
人間一人一人の存在・命を大切にしたい、信じたい。
という心の奥底の声に気づけたわたしは、
自分の命・自分の選択も信じることができた。
そして、本当はこのパンデミックで、子供達の将来にどう影響が出るのかとかもどこかで心配していたんだと思う。でも、
子供たちの命にを信じることもできた。
すると・・・
心から一緒に遊ぼう♡と思えるようになり、お店屋さんごっこや、お絵かきをして楽しかった。今まであんなにも一緒に遊んでこなかった母だけど、彼らはそんなことは全く気にしていないようで、子供たちの命がキラキラ輝いていて、涙が出そうになった。彼らは純粋にわたしのことをずっとずっと信じていてくれた。そう実感した瞬間だった。
もちろん、noteを書いたり、自分の時間も大切に取りつつだけど、確実に見える世界が明るくなった。
でも、もちろんそうじゃない人たちもたくさんいる。
オンライン講座やzoom飲み会をしている人、これを機にオンラインサロンやコミュニティの中に入ろうと動ける人っていうのは、それができる体力がまだある。
もっと辛い想いで今にも倒れそうな人たち、すでに倒れてしまっている人たちはもっと見えないところにいると思っていて。。。
そういう人たちに何ができるんだろう。
そんなもどかしさと、動きたいエネルギーに今満ち溢れている。