擬態していることに気づいた日#6
どうも、りんごあめです。
とてもお久しぶりです。夏休みに予定を詰めすぎてnoteの時間が取れませんでした…笑
今回はこの夏休み中に起こった出来事から自己分析をしたいと思います。
8月某日の出来事
今回の自己分析には気づくきっかけがありました。
これは8月某日のお話___
私は友達と東京で遊ぶ予定がありました。
この日は元々私が行きたい場所についてきてもらうという内容でした。しかし、私の下調べ不足と方向音痴が相まって目的地に着くまでにあっちこっち振り回してしまいました…。本当に申し訳なかった…。そう本心から感じました。そして、その後の移動中の電車で「夏休みの予定ってどのくらい詰めてる?」という話題になりました。友達は「学生のうちしか遊べないから、ギチギチに詰めてる。」と言うのに対して私は「親密度関係なく、人に会うこと自体にエネルギーを使うから何もない日を作らないと病む。」と伝えました。この発言が後の自己分析につながります。
その日は寄り道をして解散したのですが、「法やモラルの範囲内で他人(=自分以外の人)に迷惑をかけないなら、本人の自由」と考えている私は友達を連れ回してしまったことへの罪悪感からその旨を解散後連絡しました。そうしたら、その子からこう返信が来たんです。「人と会うのが疲れるってそういうところじゃないの?変に気負いすぎてるよ。(要約)」。これを見て、私は今の今まで自分は他人の目を気にしない性格だと思っていたのですが、どうやらそれは”赤の他人”だけだったらしいということに気がついたんです。実際、友達といる時は楽しい気持ちももちろんあります。でも、家に帰って来た途端に張っていた糸がプツンと切れたように半放心状態になるんです。自室に来た時には「もう、動きたくない。」と思ってしまいます。
そこから考えられる仮説
先ほどの実体験を踏まえて、なぜ私が人と会うことでエネルギーを必要以上に使ってしまうのか。を考えてみました。そこで導き出した仮説は2つあります。
仮説1 他人の目は気にならないが、友達の目は気になってしまう
1つ目は「他人の目は気にならないが、友達の目は気になる」。
これは私が赤の他人に対して興味がない・今後プライベートで関わることがないと考えているため、他人の目なんてどうでもいいと思えている。それに相反する形で友達には興味がある・今後も関わりたいと考えているため、友達からはよく見られたいと無意識下で思っている。この2つが合わさって生まれた考え方です。
当然ですが、今後も関わりたいと思っている人に対しては好印象を持ってもらいたいので、弱いところや嫌われるかもしれない要素は見せずに良いところを見せたいと考えます。それが行きすぎた結果、友達の前でも気を張ってしまう。そして、エネルギーの消費が激しくなるのでは?という仮説です。
仮説2 私自身が傷つかないための防衛
2つ目は「私自身が傷つかないための防衛」です。
これは1つ目よりも複雑な構造をしています。まず、私は物理的に目に見えないものを扱うのがとても苦手です。具体的には人の感情、場の空気・流れなどなどです。そう、対人コミュニケーションにおける「空気を読む」ことが大の苦手なんです。次に、私は「感性や考え方はそれぞれなので、他人の考えてる事なんか分からない」という考えをベースにしています。そこから相手の正解がわからないなら、余計なこと・リスクがある言動は極力しないようにとしているのかもしれません。
この後でもお話するんですが、空気が読めなくて失敗した経験から「傷つかないように」「失敗しないように」とどんどん周りに気を遣うようになった結果、気を遣わなくてもいいはずの友達や家族の前でさえ気を遣ってしまうようになったのではないか。という仮説です。これに関しては、むしろ、一緒に過ごす時間が長い相手だと相手の考え方などがある程度わかっているので余計に気を遣うのかもしれません。
考え方のきっかけ
さて、先ほどお話しした空気が読めなくて失敗した経験がおそらく擬態するきっかけになったのでは?と思うので、そのお話をさせていただきます。
時は遡ること9年前。
思春期真っ只中な小学5年生時代です。以前、この時期は友達にいじめられていて、初めて「死にたい」と思った時期だと書きました。このいじめられた内容こそが「空気が読めないから」だったんです。今回は2つ実際のエピソードをご紹介します。
1つ目は友達2人と話している時、流れで最近ハマっているものの話題になりました。友達が当時流行っていたアニメやゲームを上げる中、私は素で対象年齢8歳程の女児向けアニメにハマっていることを言ってしまいました。これがまさに「話の流れや空気がわからない」でした。友達は話や場のノリを理解できていない私がいることで場が楽しくなくなり、私は趣味を否定されたことで傷つきました。つまり、お互いの存在がお互いに不快でしかなくなったんです。この時は否定してくる相手に非があると思っていたんですが、後から見直すと私も私で場に即した発言では無かったなと思いました。そこから、空気を読むってコミュニケーションにおいて大切なスキルだなと学習しました。ただ、本音で話せないって信頼できてないってことなので「本当に友達なのか?」とは今でも思います。
2つ目は大人数で遊んでいた時のお話です。
当時同じクラスのメンバーでやるゲーム大会に友達が参加する話を聞いたので、興味本位でついて行ったんです。そうしたらなんと、そこはノリと勢いだけで物事が進むような所謂陽キャのパーティーでした。来た瞬間に引き返せばよかったのですが、主催者が出迎えてくれた手前引き返す勇気もなくそのまま参加することに。結果的には、ゲーム下手なのにでしゃばりすぎたり、空気が読めず「〇〇の方が絶対いい」のような発言をして場を凍らせました。見事に撃沈し、挙げ句の果てには空気読めないキャラとしていじられ、それに対して空気なんて曖昧なものわかるか!!と逆ギレして帰宅するという始末。これも今思うとTPOがなって無かったなと反省できるものの、当時は行きすぎたいじりだとどこまでも被害者意識が抜けませんでした。ここから、自分が集団に馴染むには擬態の練習をする必要があるということを学びました。明るく気丈に振る舞うことで、盛り上げられなくとも場を凍らせないように練習しました。
どう向き合っていくのか
ここまで、なぜ私は人と会うと必要以上にエネルギーを使ってしまうのかについての仮説やきっかけについてお話ししてきました。
ここでは、これについてどう向き合うべきなのかを考えていきたいと思います。
結論から言うと仮説1も仮説2も私の中には存在しているので、両方に対処する必要があります。まず、仮説1に対しては「友達を信じる努力をする」ことにしようと思います。
要約すると仮説1は心のどこかで嫌われるかもしれない・拒絶されるかもしれないと友達に対して思っているということになります。もちろん、友達である前に個人なので全くそんなことは無い訳では無いですが、信用出来ていないって友達だと相手に失礼だと思うんです。私は友達って一緒にいて楽しいかつある程度信用できる子を言うと思っているからです。つまり、信用できていないって友達だと思ってないってことなので。
仮説2は「空気読む」という苦手なことをして周りを不快にさせたくないし、自分も傷つきたくないと無意識に感じているということです。私に限らず、誰だって傷つきたくないし場の雰囲気を壊すようなことはしたくないです、多分。おそらく、その恐怖心が他の人より強いのと過去にその手の出来事で失敗したから過剰に反応している気がします。気にしなきゃいいじゃん!って言うのが最適解なのですが、そこまで器用な大人ではないのが私。これからは気を配りつつ、あまり自他ともに過小評価しないようにしていきたい。
この性格と上手く付き合っていきたいし、そのための努力もまだまだするつもりです。いつか自分が楽に生きられるためにも。