デザインと価値観を考えた日#3
どうも、りんごあめです。
私は普段はその辺の大学生ですが、大学生にしては特殊な学科に籍を置いてます。
私が専攻してるのは“デザイン学”です!
今回はそんなデザイン学と私自身の価値観について語りたいと思います。
デザイン学について
先ほどの話を聞いてデザインって学問なの!?と思った方もいらっしゃると思います。なんなら、私自身も入学する前は学問だと意識したことがなかったです。笑
まずはデザイン学について語ります!!
そもそも、デザインとは何か。
はい、デザインの定義ですね。
私が所属している学科では、“デザインとは、対象に伝えることを目的とした作品の総称。”だと言われています。
ここでよく言われるのは、デザインとアート(芸術)のちがいはあるのか。ということです。
はっきり言いますと、明確なラインはないです!!
というのも、どちらも作品であることには変わりがないのです。ラインがあるとすれば、「制作時の目的に“伝える”ことが含まれているか。」だと私は思います。
アート(芸術)は結果的に歴史や文化に影響を与えることもありますが、デザインはそもそもの目的が何か対象に伝えることなのです。
学問としてのデザイン
学問として見た時のデザインってなんだろう。と、この記事を書くにあたって考えてみました。
私が行き着いた結論は、“何かを伝える作品の作り方”を学ぶことです。
作り方とは、技術面だけでなく思考の仕方も含んでいます。
具体的には、あるポスターのデザインを考えているとしましょう。そうすると、「どうしたらこの情報がより分かりやすく魅力的に伝わるか。」「どうしたらこれを通りすがりに見た人が興味を持ってくれるか。」「このアイディアを形にするにはどういう手段を使えばいいのか。」などを思考するのです。ただ、当然ですが、その考え方やアイディアの出し方、表現技術は1日やったくらいでは、わからないことがほとんどです。
だから、デザイン学やプロのデザイナーがこの世に存在するのだと私は考えています。
なんでデザイン学を専攻しているのか
さて、ここからが本題です。
私がデザイン学を専攻している理由についてです。
まず、大前提として私はものづくりやイラストが見ることも作ることも含めて大好きです!それは幼少期から全く変わってないです。
でも、単に好きなだけならわざわざ専攻しません。趣味のままでも楽しめますからね。
それでも、私が専攻した理由は「デザインは言語の壁を越えられる共通言語」だと考えているからです。世に出回っている所謂“伝える媒体”というもの、例えば新聞、テレビ、YouTubeなどは、どう足掻いても言語という最大の壁を超えることは出来ないです。日本語の記事を英語に翻訳すればいいじゃん!と感じた方もいると思います。
だけど、Google翻訳を使ったことがある人ならわかると思いますが、やっぱりAIや機械を通した言語って文章として不自然なんです。同音異義語や細かいニュアンスが上手く伝わらなかったりします。
その点、デザインは言語の壁を超えることが出来ます。例えば、りんごの絵が描いてあるパックジュースのパッケージを見たら、どこの国の人でも「これは、りんごジュースだな。」と伝わるでしょう。
これが私が専攻した理由です。
どんな文化の人でも国の人でも言語の人でも、誰とでもわかりあえる可能性を秘めている。それをデザインから感じたんです。
私の価値観について
ここからは価値観についてです。
自分語りが入るので、苦手な方はブラウザバック推奨です。
また、あくまでも自己分析なのでソースは全て自分の主観です。ご了承ください。
ベースにあるもの
まず、基本的な考え方です。
私は、過去の経験や失敗から学び放任主義になりました。その根底には、「自分も干渉されたくないし相手も干渉されすぎると良くない。」という考えがあるのです。要は過度な干渉はお互いに良くない事態を招くということに気がついて、それからは友達でも適度な距離感を心がけています。
その結果として、放任主義になりました。
簡単な言葉にまとめると「周りに迷惑をかけず、法律やモラルに反してなければ、本人の好きにすればいい。」という感じです。
過去の経験や失敗についてはまた別の記事でゆっくりお話しようと思ってます。
ただ、さっきの話は赤の他人に限られます。
だって、友達なら迷惑かけてほしいし、家族なら好き勝手されすぎるのも困ります。笑
とまぁ、ベースとなってる考え方はこんな感じになります。
私の恋愛観
最初に謝っておきます。恋愛に関してはとても捻くれてます!!
ごめんなさい。純恋愛とか多分もう出来ないです。
というのも、元々捻くれていたわけではありません。今まで経験した恋愛を通して徐々に捻くれていきました。
最初の方は、本当に純粋な気持ちで好きだのかっこいいだの言ってました。でも、明確な時期は覚えていませんが、いつからか自分が“女”として見られることに抵抗(?)気持ち悪いと感じるようになりました。
恋心自体は芽生えますし、好きな人も出来ます。ただ、キスするとか、そういう“カップルらしいこと”をするとなると、やっぱり自分が女子側に回ることになるんですよね。それが異常なまでに気持ち悪いんです。
イメージとしては“女子”というフィルターを通して自分を見られてる状態が嫌なんです。“ひとりの人間”として見てほしいと思ってるんだと思います。
勘違いしないで頂きたいのは、心が男とか性自認が体と違うとか、そういうことでは無いということです。心も体も正真正銘女です。かわいいものも大好きです!ただ、恋愛においては“女子”として見られてることが気持ち悪いんです。
だから、今までお付き合いしてきた方とは所謂“友達カップル”の形がほとんどでした。1番進んでた方で手を繋いで終わりました。笑
なので、結婚願望も今のところないですし誰かと付き合いたいとかもないです。あと、ベースの考え方が前述の通り放任主義なので、束縛とかもありません、多分。
タイプとして、適度にかまってくれてお互いにある程度放任していて、私という人間を理解してくれれば特に他には求めません。理解するハードルが他の人よりも高いんだと自分では思ってます。
私自身がオリジナル。
上の方からわかると思いますが、私は大分世間の普通からズレた考え方をしていると思います。そんな私にも考えの軸という大層なものがあります。
それは「私自身がオリジナル。」というものです。
当然ながら、私の人生の主人公は私です。それは紛れもない事実です。でも、私がこう考えるようになったのには理由があります。
私の出身高校はクリエイティブスクールというまぁ珍しい枠組みの高校でした。簡単に言うと「様々な境遇の子に学びの機会を与え、クリエイティブな人材育成を目指す。」という理念を掲げた高校です。なので、入試のペーパーテストの代わりに特色検査を受けたり、学び直しを中心に授業を展開していました。
そこで出会った友達の多くが“誰かのために生きてる”子だったんです。例えば、お母さんのため。例えば、きょうだいのため。その生き方自体を否定する気は無いですが、「本当にそれで自分が死ぬ時後悔しないのか。」と感じました。
だって折角の自分の人生ですから、後悔して死にたくないです。
他の誰かが自分の代わりに生きてくれるわけじゃない。じゃあ、「自分が納得いくようにとことん生きてみよう。」と行き着きました。
そして、ここで冒頭のデザイン学と繋がるのです。自分より技術のあるクリエイターは他に山ほどいる。だけど、自分と全く同じ人生を歩んで全く同じ価値観で生きてる人は他にいない。
つまり「私自身がオリジナル。」は、「私にしか歩めない人生で私にしか作れないものを作り続ける。」という意味なんです。
まとめ
長々と拙い文章に御付き合いくださり、ありがとうございました!
これからも、私はものづくりを続けますし、辞めることは無いと思います。その時は死んだと思ってください。
どなたかの参考になれば幸いです。
では、また別の記事でお会いしましょう!