
自分へ
この記事は、書いてよかったと思う。おじいちゃんが僕に与えてくれた意識の変化は、全ておじいちゃんの生の証でもあるから。
概要(追記)
この記事は、文字通り「自分への手紙」なので文章として書いたものではない。最初は、数日後におそらくショックを受けているであろう自分に対し、正気を保たせることを目的に書いた手紙だった。
しかし結果的に、自分の心境を記録し続けるものとなった。
これを書き続け、しばしば読み返していた事で色々思い、そして多分、最初に思っていたよりもわずかに良くなったと思う。
十日後か、一年後か、はたまた数年後か分からないが、この記事には初めて「#人生」「#自分」などのタグをつけた。
いつか読み返してもらえたら、面白いと思う。
※この記事は完全に時系列に沿って追記しています。次の見出し以降は日時の追記を除いて一切の編集をしていないし、それは禁止します。
また一連の出来事が終わった時、追記をやめようと思う。
おそらくそれは火葬後になるが、四十九日になるかもしれない。
発端は姉から入ったLINEだった。
『おじいちゃんが救急搬送されて入院したよ。本当にもう長くないと思う。』
これが来たのは既に夜中の11時過ぎで、もう病院に移動しても入れて貰えない時間だった。しかし気持ちが落ち着かず、また自分は必ず後々ショックを受けているだろうと考え、自らの気持ちを残すことにした。
読み進めていくと分かるが、はじめ私はこれまでの思想通りに動こうとした。それも含め、この記事では自分の心境をただ浮かぶがままに文字起こししている。
尚、祖父は95歳と長命で、更に私の家庭環境では文字通りの「父親」であった。
別れの覚悟はしていたつもりだった。だが改めて最初から見返すと、実際には全くそんなものは出来ていなかったのだと感じる。というか、おそらく端から「別れの覚悟」なんていうものは存在しないのだろう。
後に自分が迷った時、この記事を見るのも良いかもしれない。
希望になるかもしれないし、意にも介さないかもしれない。
ただ、自分にとってはおそらく人生で最も重要で、しかし不可避の出来事を嘘偽りなく記録したものとなる。
トップ画像は用意しないつもりだったが、私がこの記事を書いている途中で聞いた曲の画像にした。元々好きだった曲だが、今回の非日常的な生活の中で、私に希望を見出してくれる一つのきっかけになったと思う。本当は『悲愴』を聞こうとしたけど、この気分では長すぎて聞く気にならなかったw(あちらも元々「人生」がテーマなので)
以降、文字通り手紙と記録になるが、変化し続ける自分の心境は全て「自分の意識」そのものなのだろうと思う。
2025年1月26日(日)夜
多分、そろそろおじいちゃんは死にます。
寿命を全うしたのだから、良かったと思いなさい。
正気を失わないように。人はいつか死にます。
よすがを見つけて保って下さい。
多分おばあちゃんの時と同じで、死んだときは悲しいけど、数日で日常に戻るよ。
もし辛ければ仕事をするのが良いでしょう。
今のよすがは仕事でしょう。上司に迷惑をかけないようにしてね。
もし辛くても、みんな味わった辛さです。
よすがを見つけて保ってください。日常を変えるな。
駅で空を見てたら星の前に雲が流れてた。
行雲流水
やっと分かった。雲は元々水だったのね。
水になり雲になるのと同じようにこの世は無常で全部が空です。なにもないから自分を大事にすること。
自分は悟れない。だから縋りつくものが必要。
だから縋り続けろ。人にでも良いから。
ショックで泣いてるだろう。
でも多分ドライだからすぐ忘れるよ。大体みんなそうだから大丈夫。
やっと家族と離れられるな。おめでとう。不謹慎だけど怒るなよ。本心だから。
意識もこの世にあるものなら、地上から消えた意識はどこにいくのだろう。
面白いじゃん。掘り進めてみたら?
ー返事(2025年1月27日(月)夜)
酷かった。想像以上に酷かった。
むしろなぜ救急搬送なんかしたんだとさえ思う。
ずっと喚いてたよ。苦しみ続けてた。
やっぱり母と関わると禄なことにならない。
どうすべきか分からない。
生き地獄だ。解放してあげたい。
上で書いてあることが本当なんだと思う。本当に残酷だと思うけど、行く前の僕は真実を書いてる。
日常を壊したくないし、いくらおじいちゃんでも僕は家族とはもう関わりたくない。とにかく、早く死なせてやって欲しい。
病室にいる時、泣きながら今死んでくれないかなと思ってた。可哀想だったのもあるけど、自分の目の前で死んでほしかったのもある。
とにかく可哀そうだ。でも僕の意見は正しい。絶対に合ってると思う。
こういう時、会社が優しいと自分で選択しないといけないのでむしろ辛くなるな。
僕は明日出社して、普通に仕事をする。おじいちゃんはその間ずっと苦しく、そして寂しいだろう。死んでしまうかもしれない。でもそれは仕方ない事だ。死ぬまで待ってなんていられない。家族にも合わせない。
おじいちゃんが死んだらやっと人質もいなくなる。本当に絶対、二度と関わらない。自己中な自分の正直な本音だ。
僕は自分の為に生きたい。だから仕事を休み続けることはしたくない。
上司に迷惑をかけるのは自分に対する迷惑だからしたくない。
今選ぶような気分だ。自分の育ての親か、自分のどちらを取るか選ばされてる。
僕は自分を取る。育ての親でも自分を取る。残酷だけど、どっちにしろ避けられないのが現実だろう。自分が責められる要素はない。
ー更に追記(2025年1月27日(月)夜)
凄い偶然じゃないか?去年の秋から病みが強くなって12月にはかなりひどくなっていて、死生観を考えて、読んだ小説、見たアニメから自分の希望を探そうと思った矢先に育ての親が死にそうになってる。
僕が思うに、自分から死を選ぶにはまだ早いんだろう。
おじいちゃんがあれだけ苦しんでるのに寄り添わない自分はひどい奴だ。でもいつ死ぬかなんて分からないじゃないか。どうやったって後悔が残る時には残るものだよ。
だから自分の考えと本心に従え。
後で後悔して、ずっと後で読み返したらどう思うかな。
酷い奴だと思うかな、まあこの時はこんな感じだよねと思うかな、普通に痛いなーとか思ってるのかもしれないね。
でも今の僕はこれを選びました。選んだんです。
今の僕にとっての希望は会社の人だから、それを選びました。後々変わってるかもしれないけど少なくとも今はそう思ってるよ。
もし自責の念に駆られたら、この記事には初めて「日記」とか「人生」のタグをつけておくから覚えていておいて欲しい。もしかしたら救いになるかもしれない。
何かに挫けてても、本当に諦めたくなってたらそれでいいけど、もし本心がそうじゃないなら希望を探しつづけなさい。
後悔も全部楽しめ、それが今の自分からのメッセージ。
ちなみに今結構泣いた後だから目がパンパンに腫れてるよ。
だけど元カノと別れた時ほどじゃない。
だから多分だけど、後々これを見る自分は祖父母の死についてはケロッとしてて、他の事で悩んでるんだろうね。
希望を探せよ。
ー翌日のメモ(2025年1月28日(火)午前11時)
出社して朝会の時に連絡があって、もう今日明日の命だって。
14時から面会可能って言われたけど、間に合うかな。間に合わなくてもおじいちゃんが楽になったのを喜んであげよう。
あそこまでボロボロになっても最後まで外出しようとする姿勢、カッコ良かったな。
僕は楽しむことが生き甲斐でそれをさがしてるけど、おじいちゃんにとってそれは散歩だったんだろう。意識が朦朧としながらも帽子を被ろうと、上着を着ようと手を伸ばす姿勢はカッコ良かった。おじいちゃんには生き甲斐があったんだ。そして最近までそれをできてた。凄い人だな。
今は電車で病院に向かってます。14時までには間に合うでしょう。会いたくない家族と会って、なぜか本人は三途の川を見てるのに遺影の額縁選びだって。
あんなボロボロなのに、明らかにおばあちゃんの最期と同じような状態だったのになぜ僕は出社してしまったんだろうと後悔した。
おじいちゃんには悪いけど、14時まで持ちこたえてて欲しい。病院に着いたらずっと離れないから、ここまで来たら看取らせて欲しい。もう何が本心か分からない。
でも、今移動中に書き綴ったメッセージを見て思い出せました。後悔も織り込んで、自分を優先したんだった。
ーまた翌日夜の追記(2025年1月29日(水)夜)
上のメモの日(昨日)の21時におじいちゃんは、逝きました。
14時に病院に入って、おじいちゃんは昨日のように苦しみ続けてはいませんでした。老いのおかげか薬のおかげか、もうほとんど動けていなかった。ずっと何かを言おうとしていた。でも僕にはそれが分からなかった。
僕は律義に病院のルールを守って14時には病室に入り、その後おじいちゃんが死んでしまうまでの間で抜けたのは1時間だけだったと思う。それくらいずっと寄り添い続け、語りかけ続けました。正直に本心を書くと、既に寄り添うには遅すぎたんじゃないかというのが本音です。
おじいちゃんはきっと意識があると、音も聞こえてると、触覚もあると信じて、ずっと手を握り続け、ずっと語り掛け続けました。
「おじいちゃん、○○だよ。大丈夫だよ。帽子もあるしダウンもある。おじいちゃんはすぐに良くなる。身体も良くなって散歩に行ける。おじいちゃんはずっと楽しい。足も軽くなって公園で桜を見て、カメラで写真を撮ってテレビを見て、カラオケも楽しんで、ずっと楽しい。家族のみんなもずっと幸せ。僕はずっと近くにいるよ。仕事も頑張る、長生きもする。僕もずっと幸せだから大丈夫。おじいちゃんのおかげです。おじいちゃん。大丈夫だよ。すぐに家に帰れるよ。またいつもの恰好で外に出て、これからもずっと楽しい。大丈夫。」
おじいちゃんは散歩が大好きだったから、そして多分家族の中でも特に僕に対して思い入れがあったから、文字通りの育ての親だったわけだから、そんな僕はおじいちゃんにはとにかく安心して、希望を持って逝ってほしくて、朝までずっとそうやって語り掛け続けるつもりでいました。そしておじいちゃんに語り掛け続けている間に心拍数は止まり、おじいちゃんは死んでしまいました。最期の瞬間、僕はずっと語り掛け続け、手を握り続けました。
死亡診断後も30分はずっと語り掛け続けました。身体機能が止まっても「意識」と呼ばれる何かが身体に残っている可能性があると思ったので、少なくとも電気信号が止まると思われる30分はずっと語り掛け続けました。病院のスタッフはさぞ迷惑に感じたでしょう。ごめんなさい。でも僕には「意識」と呼ばれる何かがテレビの電源のようなものとは思えないです。もし電気信号だとしても、それはお湯がゆっくりと水に戻っていくのと同じように、心臓が止まり、脳の機能が止まってからもゆっくりと消えていくものなんじゃないかと考えていました。なので少なくともそれが残っている可能性のある30分、ずっと語り掛け続けるようにしました。
しかし、唯一本当に最期の「瞬間」を看取った自分の中で、おじいちゃんに意識があったのかどうか、僕の言葉が聞こえてたかどうかは今でも本当に分からないです。前日、苦悶の中で僕を見たおじいちゃんは、僕に対して「お前は全然帰ってこないじゃねえか」と遂に言いました。今までおじいちゃんはずっと、帰りたくない実家に僕が顔を出した時「おー久しぶりじゃないか」と言っていた。だけど最後の最後に僕に「全然帰ってこない」と言ったので、多分ボケが進んでいても「おじいちゃんの意識」そのものは、本物の僕が家にほとんど帰ってこないことを分かっていたんだと思う。
昨日、おじいちゃんは遂に言葉を発する事すらできなくなった。
僕には確認の方法は本当に一切ないです。ただたまに苦しみ、たまにそれは笑っているようにも見え、たまに手を握ったり振ったりしてくれました。夕刻からは目を開けることも出来なくなった。僕の顔を見せることも出来なかった。
今日姪から聞いた話によると、おじいちゃんは本当にずっと僕に会いたいなあと言っていたようです。僕にそれを言っていたのは今まで親や姉だったので、僕は彼女らの事を心底嫌っているのでその言葉を信じていませんでした。それに、一昨日あたりに書いた通り、最早僕にとっての「家族」はおじいちゃんだけになっていて、おじいちゃんが死んだらもう、自分は家族とは金輪際、一切の関わりを断ちたいと思っているほどでした。
だけど姪の言葉で分かったのは、おじいちゃんはどうやら本当に思っていたし、僕が思っていたほどボケていなくて意識もずっとしっかりしてた。僕は昔、おじいちゃんがほとんどボケ始めてしまってもう「本人の身体を纏った誰か」に近づいていってしまっていると本気で思っていた。なんて親不孝だったのだろうと思う。実際は多分全然そんなことはなかったのだろうし、そうだとしてもそれが「本人」なのだと、何故気付かなかったのだろうか。
同時に、姪が言うにはおじいちゃんは僕の事を分かっていたと言った。あの子は人の求めることを発言しようとする強迫観念の傾向があるので、僕はそれをあまり信じられないが、もし仮にそれが本当で、僕の言葉がおじいちゃんに届いていて、僕の言葉でおじいちゃんが幸せに逝けていたら良いのになと、本当に思います。
おじいちゃんにはただ幸せになってほしかったので、ずっと語り掛け続けた。そして実際におじいちゃんに聞こえているかは分からず、そして僕は遅すぎた。だけど最期に2人にさせてくれ、それからは多分1時間以上ずっと語り掛けていたと思う。「死亡」後も30分語り掛け続けるようにした。その時には、僕にとっては煩く邪魔で、しかしおじいちゃんにとっては大切な家族が回りにいたけど、それでもずっと語り掛け続けました。
いつまで聞こえてただろう。最期まで聞こえていなくても良い、そう思えるほどにはずっと語り掛けられる、寄り添えるだけの時間、おじいちゃんは生き続けてくれました。僕にとっての希望的観測です。絶望的観測は、前日の苦悶の時が最後の意識だということ。だけど多分それはないと思う。今日親戚のおじちゃんで、おじいちゃんの弟が訪れた時、おじいちゃんは明らかに目を開けて反応してた。あれは「意識」がないと説明がつかない。
なのできっと「意識」はあったし「聴覚」もあった、手を握ると返してくれ、振ると振り返してくれることもあった。現象だけで言えばおじいちゃんには「意識」があったという説を支えられるものは多いと思う。
だけど大事なのは「意識」があったとして、そして最期に、親不孝な孫が語り掛け続けた言葉が仮に聞こえていたとした場合、果たしておじいちゃんは「幸せに逝けた」のだろうかということでした。
自分に対して厳しく言うので太字にするけど、お前の言葉や行動で幸せに逝けたかは分からないし、これまでのお前の親不孝な行動はおじいちゃんにとって苦しみだったんじゃないかと思う。幸せに逝けたかどうか分からないのはお前の中でこれからもずっと分からないし、お前には救いなど来ないのが真実なのだと、忘れているなら思い出しなさい。
ただし、前にも書いている通りで人生とはそういうもののはずです。自分はずっとその考え方をしていて、その考え方に従って動き、その結果おじいちゃんとの別れ方が決まり、そしてその悩みの意味が分かることはなく、その悩みにも意味はなく、僕はそのままいつか死ぬでしょう。僕が死ぬ瞬間、おじいちゃんの事を思い出すのだろうか。本当に分からない。分からないけど、少なくとも今日の僕は、「思い出して欲しい」と思っています。
おじいちゃんの肉体が「死亡」しても、「意識」がどこに行ったのか分からない。ただ、無になったとは言えないだろう。単純だよ。質量保存の法則があるのでおじいちゃんの構成要素はこの世から消えないし、行雲流水の教えを自分なりに捉えれば、おじいちゃんの「意識」もまた流れ、形を変えて、ある意味では最初から「意識」という形としては存在せず、しかしずっと形なく存在し続けているのだろう。僕自身もその大きな循環の一部だ。だから僕の意識とはおじいちゃんの意識でもある。そう捉えても良いかもしれない。
家に帰って、また結局泣いてしまった。おじいちゃんの身体が「器」に戻ったと分かっても、「意識」が消えたかどうかが分からなかった。それに家には僕が知らなかったおじいちゃんの欠片がたくさん残っていて、それを知る度に自分の親不孝ぶりを思い知らされた。
僕は不幸だと思い離れた家族だが、おじいちゃんには幸せをもたらしていたのだろう。心底都合が良いと思うが、そう信じたい。
親に対しては、複雑な心境である。
おばあちゃんの時もそうだが、おじいちゃんを最後まで面倒見続けたのは本当に凄いと思う。そういうところは素直に尊敬する。
一方で、意識が消えゆく当人に対して「ひ孫が来るからそれまで戦え」だの、「負けるな負けるな、3月に旅行に行くんだろ」だの「まだ寝るな」だの、それは本人の望みだったのだろうか、それとも苦しみの言葉だったのだろうか、僕には分からない。挙句の果てにひ孫が(小学生の割には随分と時間に余裕をもって)到着した暁には、皆で最初だけ「ありがとう」としばらく語り続けた末、着いた途端に「もう眠って良いよ」と言い始めた。しばらく寝ないと、ひ孫が若いから仕方ないとはいえ、雑談のような話をし始める。家族嫌いの僕は、あの時間におじいちゃんの「意識」がなくなっていたら可哀想だと思ってしまうが、もしかしたらおじいちゃんにとっては逆で、親不孝な孫だけが最後に意味不明な言葉を語り掛け続ける最期の方が、むしろ最悪だった可能性もある。多分一生分からないだろう。どちらの可能性も考え続けないといけない。
それに今回の入院も、僕にとっては疑問だった。小さなころから接してきた僕にとって、おじいちゃんは自然消滅主義に見えた。つまりいわゆる「天寿を全うしたい」といった思想の言葉が多々あったのだ。しかし僕には入院したおじいちゃんは「天寿」を逃してしまったように見えた。実際に、少なくとも昨日の時点では、おじいちゃんは「もういいだろう」というようなことを言っていた瞬間があった。
本当は自分の家で、苦しいのかもしれない、寂しいのかもしれない中で「意識」が消えていれば、「本人」の心の整理が一番付いたのかもしれない。だから僕にはあの点滴が残酷に時を刻んでいるように感じた。更に家に帰ってから発覚したが、おじいちゃんの行動もおかしくはなっていたとはいえ、母は祖父を長生きさせるために異常値などがない状態でも、つまり水分を摂らなくなってしまったからなどの理由で、嘘をついてでも救急車を呼んだとのことだった。実際にそれは危篤状態ではあったが、水分を摂ることを自ら辞めた時と、点滴で生かされている状態、どちらが幸せだったのだろう。僕は今回の事で、僕の家族嫌いは「善意の押し付けによる悪」に起因すると漸く気付いた。僕は、自分が最期に合えなくてもおじいちゃんには寿命に最期を迎えて欲しかったと思う。点滴のおかげで苦しみの時間が生まれ、点滴のおかげで人と会える時間が出来たのだ。本人にとってどうだったのか、それはずっと分からない。だけどどうか、最期を一緒に過ごした自分の言葉が、おじいちゃんを幸せな逝去に導いてくれたことを願う。願うしかできないことを忘れないように。
もう一つ書いておくが、四十九日は守った方が良いのではないかと思う。
一方で、おばあちゃんの時がそうだったように「49日間」という期間は人間が病む上では十分すぎるほどに長い時間になる。だからもしお前が病んでしまいそうになったら、最初の頃の自分の考えを思い出して欲しい。
希望を探せよ
と書いてある。僕はしばらく自分の考えや行動をメモしてきたが、それは本当に病んでしまいそうな自分に宛てた手紙である。その中に書いてある。
僕は自分でこの経緯を選び、その一貫性はたしかに取れているようにも思える。そして最初、おじいちゃんが実際に逝去する寸前でも、苦しんでいる時ですら自分は、こう書いていた。
自分を取る
自分に従え
自分で選んだ
かなり強調している。一つだけ、過去の自分に対して「お前は分かっていないな」と言いたいのは、最期を看取るというのは多分忘れることはないんじゃないかということだ。これも分からないけど、それほどには強い印象と悔恨が残った。
でもこれも自分の行動は一貫していたと分かる。
上司は僕へ「後悔しないように」と言ってくれた。僕は上司に「後悔は結局残ると思うけどそれでも自分で選ぶ」と言った。実際に、僕は最期を看取り、自分なりにおじいちゃんへの最大限の看取りをしたと思う。希望を与えるよう行動したと思う。でもやはり自分の予想通り、それは確認できないので後悔は残っている。しかし、程度が分からなくてもそうなることだけは分かっていて書いたのだろう。
日常を続けろ
希望を探せよ
日常を続けろとは、仕事を続けろとイコールではない。結果論だが、僕の日常の中におじいちゃんの看取りが入ったのだ。後悔はやっぱり残ったし消えないだろう。だけど、自分は自分に希望を求めていた。おじいちゃんに顔出しせず、それのせいで後悔してるくらいなら、それから学んで過去の自分の気持ちも尊重してやれ。少なくとも、おじいちゃんと違って僕はこのメモには嘘は書いていないのだから、全て確認できる事実だろう。
自分は悟れない。だから縋りつくものが必要。
だから縋り続けろ。人にでも良いから。
2025年1月30日(木)
おじいちゃんの最期を看取り、色々思い、考えたりもして、僕の考えも変わりました。
数年ぶりにまともに親と会話して、数年ぶりに喧嘩にならなかった気がする。おばあちゃんが死んじゃった時以来かもしれない。いや、あの時も僕は本心を話していなかったから、本心を話したのなんて何年ぶりか本当に分からない。
元々、何も話さないつもりでいた。前の仕事を辞めた理由、自分が病んでしまったこと、今何をしているか、家族嫌いで、親戚も誰も知らないので関わりたくないということ。言ってもそれは親に対する呪詛にしかならないのだから、何も言わずに去ろうと思っていた。
だけど、おじいちゃんの最期を看取る時、僕はおじいちゃんに言った。
「おじいちゃん、これからもみんな幸せだよ」って。
実はこれは安心させるための言葉で、僕の中では嘘だった。
僕はつい昨日まで、おじいちゃんとおばあちゃんが二人とも死んだら、冠婚葬祭も含めて金輪際家族とは顔も合わせず連絡もしない。そういうつもりでいた。家族といると僕は必ず病んでしまうからだ。
僕は昔精神を病み、人形のようにベッドに横たわり、死にたい気持ちで過ごしていた。小窓から見える青空が忘れられない。
ハッキリ言うと、無意識の原因は親だったと思っている。大切に育ててくれた「善意」の一方で、自慢の勲章にしたい「自我」が強く、人格を否定されるようなこともよく言われたからだ。あっちの子の方が良かったとか、成績が悪いと親の顔に泥を塗ったとか、お前なんていつでも家族じゃ無くせるんだぞとか、家族なんて書面の関係だとか言われながら育ってきた。
家庭は食卓という「儀式」を重んじる一方で、その場はいつも罵詈雑言が飛び交っていた。酷い状態だった。
僕はその時間に集まる家族が大嫌いだった。それでも、おじいちゃんとおばあちゃんは孫の事を否定しないでいてくれたけど、その優しさに気付くには若すぎたんだと今更思う。
姉が家庭内では「劣等生」とされていたので、僕は「すくすくと育った自慢の孫、息子」でなければいけなかった。そう思っていた。
だからおじいちゃんとおばあちゃんが死ぬまで家族とは完全に別れられなかったし、親にとっても僕は「自慢の息子」であって欲しいだろうからうつ病の事も話さなかった。嫌いだったし。
でも、おばあちゃんとおじいちゃんを最後まで看取り、面倒を見た親はなんだかんだ凄いやつだと思う。片親にしては凄い。そこは尊敬する。昔の恨みは忘れられないから、嫌いではあるけどね。
それに気付いたからだろうか。正直、何が理由なのかはよく分からないけど、おじいちゃんが大事にしたものだからなのかな?本当にどうしてか分からない。ただ急にふと、「親に全てを話そう」と思った。
それで、正直に親に全て話した。自分にとって家族は呪いのようなものであること、おじいちゃんとおばあちゃんが死んでしまったら、関わりを断つつもりだったこと、それに姉だけでなく自分も精神を病んでいたこと。
僕の頭に溢れていた恨み言を伝えるくらいなら、何も言わずに去ろうと思っていた。だけど母にもおじいちゃんやおばあちゃんと同じように、安らかに眠って欲しいと、そんな気持ちが湧いてきた。
だから母親には「僕は今周りの人にとんでもなく恵まれていて、これからも多分ずっと幸せに過ごすから心配しなくていい。」と伝えて、お互いに色々と話してから家を出た。
帰り道はおじいちゃんの死とは異なるような息苦しさを感じながら歩いていた。
そこでまたふと気付いた。自分なりに家族の事を嫌いつつも、大切には思っていて、どうやらずっと望んでいた「別れ」は偽物だったようだ。
家に帰ってから疲れを癒すように昼寝して、起きたらもう一度親に電話した。さっき今生の別れのように家を出たのにも関わらずだ。
親は言われて寂しかったと言っていた。結局自分を育てたのはこの人で、僕たちは似た者同士なのだろう。
もう長い付き合いなので、そして親も僕の事はよく分かっているので、お互いにあまり長時間過ごすと険悪になってしまうことは分かっていたと思う。
だから今後はあまり長居はしない。それに、家族で一緒に食事もしない。ただ、今までの頑固な僕とは違って、たまには家に顔を出すよと伝えた。親もそれで良いと言ってくれたよ。
どうしてお互いにこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。
おばあちゃんの時は距離が離れてるせいだったけど、おじいちゃんの場合は言い訳できない。僕は自分で家に帰らない事を選んだんだよ。それは良くなかったね。もっと早く気付いていれば、おじいちゃんはもっと幸せだったかもしれない。
でも多分、それはあり得ない話だったと思う。僕と母の性格上、それに気付くことはなかったんだと、どこか思う。
だとするとこの気持ちの変化はおじいちゃんが家族に遺してくれた最後のプレゼント、意志なのかもしれない。
喧嘩はたまにするかもしれないけど、まあそんな事もあるだろう。
これからも自分を大切にしていいから、その大切にする中には親も入っていたんだと、今の僕は思ってるよ。
たまに顔出してもいいのかもしれないね。
自分は悟れない。だから縋りつくものが必要。
だから縋り続けろ。人にでも良いから。
一昨日辺りの僕がかいた通りだと思う。
僕は悟れないから縋れるものが必要だった。僕はそれを外に求めた。
その外の中には、親もいるのかもしれないな。まあ嫌いだけどね。
おじいちゃんを看取った翌日の帰宅後、最初に聞いたのはpop'n musicの「音楽」だった。
この曲は「人生」がテーマになっていて、人の生涯を音楽で表した曲になる、んだと思う。調べた限りではそうだし、聴いていてもそう感じた。元々好きだった曲だ。
最初、おじちゃんの人生を当てはめていた。希望が欲しかったから。
最期の瞬間、この曲のように幸せに満ちて終わっていて欲しいと、その思いに縋りたくて聞いていた。
でも、今まではちゃんと気付いていなかったけどこの曲の最後はそうじゃない。
心音をモニターする機械の「ツー、ツー」という音は死を表している一方で、最期にほんの小さく新たな曲が始まっている。
僕はこれを昨日まで当人の意識の残滓だと思っていたけど、別の見方もあった。それは「引き継がれる別人の人生」というものだ。
おじいちゃんの人生は終わり、意識は消えてしまう。だけどこの曲のように、最後は僕が引き継ぐのかもしれない。そう考えてもいいかもしれない。それはそれで「楽しそう」だ。
あとは後日にお通夜を済ませ、お葬式と火葬をして終わりになる。
おばあちゃんの時にはずっと動けない苦しい期間が続いてしまっていたので、火葬の時僕は涙を流さなかった。身体がなくなる悲しさよりも、動かなくなってしまった身体から解き放たれる嬉しさの方が強く感じていたからだ。
おばあちゃんの時はそうだったが、おじいちゃんの時、僕はどのように考えるのだろう。また僕の意志は変わっているのだろうか。
2025年1月31日(金)夕
今日は久しぶりに仕事をした。
昨日は相変わらず苦しみながら寝て、苦しみながら起きて、頭痛がするからロキソニンを飲んで、それも忘れて日常を過ごそうとした。実は仕事といっても溜まっていた分は会社の人がやってくれていて、僕はほとんど何もしていなかったけど。ただ、たまに親に電話して、お金の事とか、葬式の準備の事とか、そういう感じの現実的な話をしてたからちょっとサボってた。集中できないし。
仕事が終わって一人になった。悲しい。やっぱり悲しい。
単純に悲しい。それで説法の動画を見たりした。
死ぬということは大事なこと。生まれるのと同じくらい大事なこと。死ぬのを許さないのはその人が生まれるのを許さないのと同じこと。と言ってた。僕は死ぬのを許せないわけじゃないからちょっとズレてるけど、それでもちょっと楽になった気がする。その後余計に悲しくなったけど。
お通夜は明後日でお葬式までは3日もあるのか、長いな。今は辛いな。
でもこういうことを言っちゃったらおじいちゃんは悲しむんだろうな。
でもでも、こういう気持ちを抑えたら自分が悲しむんだろうな。
一つだけ違うのは、普通に親と話してることだ。今までの険悪さが噓みたいに、普通に話して普通に距離をおいてる。
あー僕も楽になりたいなとか思ってきちゃったわ。嫌だな。辛いな。
むしろ早く火葬まで終わってくれないかな。おじいちゃんの身体が傷ついてしまわないか心配。僕は無宗教だけど、でもやっぱり人間だし弱いから、悲しくなってしまう。
今は前日までの内容を読み返してはいないけど、最初の頃に書いてた自分の思想ってホントに真実だよな。行雲流水で、おじちゃんもその一つ、みんな一緒で全部一緒。
あー、辛いな。苦しいな。早く火葬の日が来てくれないかな。
でも日常とか人生ってこういうものなんだろうな。これも前に書いてあったけど、後悔は残るだろうけど自分で選んで、その結果おじいちゃんは僕が看取ったんだよな。
辛いな。苦しいな。せっかくいつも通りゲームしようとしてたのに、どうもまだ気持ちが落ち着かないわ。おじいちゃんごめんなさい。僕は今は苦しいです。苦しいよ。
不謹慎かもしれないけど、今「苦しい」って打ったら気持ちが少し楽になった。おじいちゃんの為に苦しんじゃいけないみたいな事を考えるほど苦しくなるんだろうな。苦しさもまた人生の一部。手紙を読み返してみるか。
あー、早く火葬してくれないかな。僕が苦しいから笑
おじいちゃん、なんで先に行っちゃったんだよwあと60年待ってくれたら良かったのにw
冗談を書くと分かる。あと60年もこの苦しみを味わわせなくてよかった。
ちょっとだけ気持ちが楽になった。正直になるほど楽になるんだな。
やっぱり明日も大丈夫かもしれない。もしダメだったら、嫌だけど実家にでも顔出すか。
2025年1月31日(金)夜
そういえばこれは自分への手紙なんだった。だから読み返していた。
途中で呪詛があった。「お前の行動がおじいちゃんを楽に逝かせてあげられたのか分からないけど、自分で選んだんだから忘れるなよ」って。
でも本当にそうだろうか。
ちょっと想像してみた。自分に意識があって、死ぬ寸前で、自分の大切な人がそばでずっと語り掛けてる。おじいちゃんにはお見通しだっただろう。年の功を舐めちゃいけない。
多分、おじいちゃんには何を話しても一緒だったんじゃないかな。そばでずっと娘が、孫が語り掛けてる。それはおじいちゃんを安心させるための言葉だった。内容なんかどうでも良くて、でもその気持ちが嬉しいって、自分の最期にそんな風に思えたら、それを幸せと感じない人なんているのか?
僕は日記の途中で母親の言葉が許せなかったって書いた。でも、それもおじいちゃんの為に語り掛けていた言葉だったと、少なくともおじいちゃんは全部そう思えたんじゃないだろうか。自然消滅主義だったと思うとか書いてるけどさ、そんなこと死に際に思うか?思想とか望みとか、偉そうに書いてるけどさ、そんなのもうどうでもよくなって、ただ自分に渡される優しさを素直に嬉しいって思うんじゃないか?というか、死ぬ前じゃなくても普通嬉しくないか?内容とか、関係なくないか?優しい気持ちって、なんとなく分かるものなんじゃないか?95年生きた男がそれを察せないと本気で思う?
本当に僕はそれを忘れちゃいけないのか?好きな人に優しさを貰って、嬉しくない人なんているのかな。都合が良いかもしれないけど、なんかちょっと本気でそう思えてきたかも。僕は喜んでもいいのかもしれない。一番最初に書いてあるのとはちょっと違うけど、結論は同じ。でも多分もっと深いと思う。
この手紙を読み返していて、(過去の自分からの引用を除いて)太字の部分は呪詛だけだった。書いていた時の自分にちょっとムカついてきたから、今日の内容も太字にしてやろう。一昨日の自分への言い返しなんだからいいだろう。それくらい大事なことだと思う。
2月1日(土)夜
僕なんか変だな。
朝起きる気がしなくて、昼過ぎまで7時間位ずっとボーっとしてた。
意識はあるけど身体が動かないような感覚で、うつで休職してた時の感覚に近い。
どうしちゃったんだろう。ショックなのか、頭が疲れてるのか。
食事も取る気にならなかったから家にある柿の種を食べた。
自暴自棄になってるのかな。
明日でもまだお通夜なのか。悲しいな。
朝はまるで僕も一緒に逝ってしまいそうな状態だった。身体が動かず、意識が徐々に遠のいていく。眠りと近いが何か違う感覚。
色々起きすぎて疲れてるんだろう。早く日常に戻りたい。
ーこの手紙をざっと(大して読まずに)見返してみた。
違うのかもしれない。この手紙で分かるけど。どんどん文章量が増えてる。
それだけ考えて、それだけ移り変わってきた。もう終わってるのかも。
お通夜もお葬式も残ってるけど、僕がやるべきことはもう日常に戻ることなのかも。文章も少なくなってってる。それで良いんだと思う。
おじいちゃんも僕が追いかけていくのは望んでない。これだけは絶対。
2月2日(日)昼
今日の夜にお通夜だ。
扁桃炎のように喉が痛い。何かの恨みじゃないと良いんだけど。
数珠だけ探したけど見当たらないな。まあ僕は仏教は好きだけど仏教徒じゃないから良いか。入信するとしても禅宗だし、儀式的に持ってる人達マシだと思うわ。
お墓の引継ぎするっていっちゃったけどやっぱ嫌になってきたかも笑
戒名代も僕が出したから、正直ご香典はケチりたくなってきたw
というかお通夜の前に色々準備がある気がするんだが、何で僕が手がいるか聞いた時「いらない」って言ったんだろう。本当にいらないのか?
この前ちょっと一緒に過ごしただけでやっぱり口喧嘩が始まったから、てか僕の家族嫌いが突然消えたわけではないからな。それは一生消えないし。だからやっぱ向こうも嫌いではあるんだろうな。まあ顔合わせないよりはマシか。法要も行かなくていいや。行きたくないし。
あれ生者の為の儀式だからな。僕には逆に苦しい。
2月2日(日)夜
お通夜が終わった。結局献杯の挨拶の時涙しちゃった。
親戚のおじちゃんたちはやっぱ良い感じの人達だったな。頭良い人が多い。
僕も何故だか本とか読んだり、散策して調べるのが好きになったけど、それは血統なんだろう。
特に考えが変わったりはしていない。ただ棺のそばを離れるのはどうしても名残惜しかった。
清めの塩ってもしかしたら自分の名残惜しさを清算するものなんじゃないだろうか。そう思って今回は撒いてみた。
2月3日(月)夜
葬儀、火葬、全て終わった。
親戚のおばちゃんにも言われた。縁切ろうとしてたでしょって。
四十九日はいない可能性の方が高いでしょ?って。病気の事は知らないけど、気持ちはみんなにバレてたみたいだ。だから多分、おじいちゃんにもおばあちゃんにもお見通しだったんだろう。
母と話せるようになった途端、今度は姉への尋常でない怒り、憎しみのような感情が湧いてきて(言い訳を添えると、これらは元々関連してる)、おじいちゃんが死んだ翌日には怒鳴り声を上げてしまった。
不思議なもので、どちらか一方とは常に超険悪になってしまう。普段は出さない自分の抑えてる感情が一瞬で爆発してしまう。正直呪いのようなものだと思う。これは消えないので、距離を置くのは変わらない。ただ、0にはしなくても良いかなと思っただけだった。
おじいちゃんが気付かせてくれたと考えると素敵なものだが、おじいちゃんとおばあちゃんに隠すのが帰らない目的だったから、二人を失った結果、別の方法に気付けたとも思える。ただ、前よりは多少マシな関係にはなったのかもしれない。
葬儀の時は少し涙した。でも火葬の時は泣かなかった。
動かなくなった身体から放たれた「意識」はどうなるんだろう。
0にはならないはずだけど、おじいちゃんではないんだと思う。
初日に書いてたけど、行雲流水
雲は元々水で、雲にも水にも形はなく無常で、しかしそれがなくなるわけでもなく…ようわからん。ただ天を「空(そら)」と呼び始めたのは、仏教の「空(くう)」が元なのかもしれない。かもしれないね。そう思った。
さて、明日から仕事して、さっさと日常に戻りたいと思う。
せっかくなので、初日の自分に少しだけ返事をしようと思う。
自分が最初にしたかった通り、僕は自分を選びます。選べてます。
完全に日常に戻るのは少し時間がかかるかもしれない。「戻る」ではなく、これを含めて日常になっていくのかもしれない。
結局、自分の苦しさも何も、元通りで取れていません。後悔も残ったまま。
でも、もしかしたらほんの少しだけ、初日より良くなったのかもしれない。
やっぱ四十九日はいないかも。ブチギレちゃいそうだから。
だからこの日記は、これで更新を終わります。
あと腐れも一緒に燃えた。どうやら本心では燃え残りがあるようだけど、どうなるかはずっと分からない。
最後に言われたのは「頑張れよ、長生きしろよ」だった。
おじいちゃん、申し訳なけど、どっちも僕は守れるか分からない。
ただ、一つだけ約束します。自分の為に生きます。僕にとってそれは楽しむことです。
2月21日(木)
ズルいね。でもどうしても残したいから追記します。
僕は日常に戻った。
悲しみはじわじわと薄れていき、もしくは深く刺さっていき、僕は今普通に仕事をして、友達とも飲みに行き、突然意識が遠のく思いをし、昨日は超お世話になった最高の先輩と飲みに行った。そしてそれはとても楽しい会だった。
おじいちゃんが死んでしまってから、いや死んでしまう前に読んでいた本の内容は希望に満ち溢れていた。それはファンタジーだし、観測のしようもないから考えても仕方がない事だけど。とにかく希望に溢れていた。
祖父であり父は、ずっと散歩が好きだった。
外に出て日常を、習慣を、そして新しいものもそこに取り入れ、それを探すのが好きな人だった。最期までずっとそうであった。
70を超えてからも一人カラオケに行ったり映画を見たりしていたようだ。80を過ぎても公園に行き、90近くで携帯でメールをくれた。95歳になっても尚、あらゆるものを楽しもうとしていたようだ。カラオケでもっと上手に歌えるようになるために、昔の譜面に色々なメモが書いてあった。英語にカタカナをふっていた。曲のリストを作っていた。命日の前日ですらおじちゃんは外に出ようとした。勝手だけど、ずっと続けてきた楽しみの探求を、最期まで続けようとしていたのだと思う。
僕はすごい人に育てられた。
そして幼少期から何度も会話した。
自分の意識は自分ですら分からないのだから、他者にも全て分かることなんて絶対にない。それはない。
ただこれは新しい発見ではないんだけど、先に書いた小説でも、行雲流水でも、あるいは西洋哲学の講義を受けた時も、本質的には同じことを言われている。
自分の考えは自分のものではない
まだうまくは言えないから素直に思うがまま書こうと思う。
僕は生まれてから触れてきたあらゆる情報、意識の影響を受けて、自分の意識が形成されている。そして僕の意識は何らかの行動によって、それもまた誰かに伝播する。
つまりどういうことか。おじいちゃんはたしかに死んでしまった。僕は日常に戻った。だけど、僕の意識にはおじいちゃんが残っている。他の人もみんな残っている。覚えてなくても影響を受けて残っている。
そしてその、影響を与えた割合として、僕にとってのおじいちゃんはとても大きい。僕の行動はおじいちゃんの生の結果でもあり、それはずっと続く。僕が死んでも続く。僕は今人と関われているから。
その証拠に僕はなぜか一度だけ学者になった。ゲームばかりしてる劣等生なのに作者の講演を聞き、その工夫に感動し、大学では自然と本を読むようになった。イスラム国が世界的な問題になっている時、何故そうなのだろうと思って宗教の本も読んだ。そして哲学の本も読んだ。それは難しく、分かり切ることは出来なくても面白かった。
理系とされる場所を選んだバカなのに、哲学に興味を持った。過去の人の考えも知りたいと思った。
文字通りの道は情報に溢れている。空、地面、雑草、車、挙げたらキリがないほど、この世界は情報に溢れている。情報が多すぎて溺れ死にそうなくらいだ。情報は苦しい。だけど、同時にそれが楽しさでもある。
それを僕に教えてくれたのは、間違いなくおじいちゃんだ。本人は俺はずっとバカでと言っていたけど、おじいちゃんの行動に影響を受けているのだ。
だから僕も旅行より近所の散歩が好きだし、身体は真逆で弱いけど、楽しみを探しつづけようとするのだ。引き継いだからじゃない。意識は一つの身体に収まるほど小さいものじゃないってことだ。
僕の行動、これから関わる人、善悪全て、おじいちゃんの人生は残っていく。僕の知らないおじいちゃんの更におじいちゃんの影響も受けているんだ。
僕は普通に生きていくけど、楽しみを探し続ける。探求し続ける。試し続ける。
だからただ、ありがとうと言いたい。
そして自慢したくて仕方がない。僕のおじいちゃんは楽しさを探し続けることが出来る、とんでもなく凄い人だったんだよ。
覚えてなくてもいい。それでも、無意識に必ず残ってる。というか消えようがない。手紙だから考えを残す。僕は今、久しぶりに悩む状態に戻った。でも、大丈夫だよ。
どんなことだろうと楽しみを探し続ける限り、きっとそれが人生を楽しむことだから。
忘れてたら、それを教えてくれた人を思い出せば、きっと大丈夫。