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「人への指摘」を科学する

こんにちは!東京へ引っ越し神楽坂で炭火焼きの囲炉裏レストランをやっております、あかりんごです!
「もうちょっとこうして欲しい」 「ここをやり直してほしい」
人と仕事をしているなら必ず思ったことがあるのではないでしょうか?

指摘の目的は安定したアウトプット

仕事は仕事です。相応のアウトプットを出してもらうために、他人の仕事に対してはフィードバックを出し続ける必要があります。 その目的は、設定した規定のアウトプットを安定的に出してもらうこと。その手段としての、指摘です。

一方で指摘することはリスクもあります。自分の行動を矯正されて嬉しい人は少ないからです。伝え方、捉え方を間違えれば「この人わたしのこと嫌いなの!?」「嫌がらせしようとしてるんだ!」という誤解が生まれかねません。 特に少人数の組織ではこのような小さな不満などが溜まると内部崩壊の危険があります。それだけ関係性が濃くなってしまうからです。


マニュアル化ではニュアンスが伝わらなかった

ではどうすればいいのか? 私がまず立てた仮説は、マニュアル化でした。完璧なマニュアルがあれば指摘する必要もないくらい上手く回るはず。そう思っていましたが甘かったです(笑)

結果、やはりニュアンス的な、細かい部分は個人の価値観に依存する、ような結果になりました。「キッチンスペースは綺麗に使いましょう」というマニュアルがあったとしても、綺麗に、という定義は人それぞれです。物が置いていないというのを綺麗と思う人もいるし、常に布巾で磨き上げツルピカなのが綺麗と思う人もいます。細かな言葉の定義しようとするとマニュアルが広辞苑と化してしまい、ルールだらけのガチゴチ仕事になってしまいます。


イライラするだけ無駄無駄ァ!

そしてそれを「指摘」によって解決しようとしても、ネガティブな言葉を使わないように指摘するには?という無理ゲーな問いにハマってしまいました。言いたいけどそれがパーソナルな部分に突き刺さってしまうと人間関係に影響が出るかもしれない。でも言わなければ私が影でこっそり直し続けるしかない。それはきついなぁ…と悶々としてしまって、答えが出せないことにイライラしてしまい、カリカリしてしまっていました。(本当に良くない!)

ですがカリカリした怒りのオーラを出したところで、誰も気付いてくれるわけではありません。(それで思いが全て伝わり解決していたら、この結果にはなっていないからです。)カリカリするだけ無駄であると思い、まずは感情的になるのをやめて、思考することにしました。


なぜ人は指摘されると嫌な気持ちになるのか?

まず根本から考えてみよう。指摘される立場にあったとして、なぜ自分の行動を矯正されると嫌な気持ちになるのか?それは正しさを押し付けられるからです。自分が間違っていると言われている=人格にまで原因を求めてしまい、そしてそれを押し付けている人の顔が見えるからです。 同じようなプロセスを辿ったとしても、逆に、当人が自ら望んで行う自分への矯正を、人は努力と呼びます。こんな身体になりたい!と思ってする筋トレは仕事で指摘を受けるより遥かに時間と労力を使うはずですが、喜んでやるのです。


矯正を努力に変えるために必要な要素

ならば努力をしてもらったほうが、いいです。 ここで考えるべきは誰を正解とするか?で、それを実在する人に設定すると、おそらくまた歪みが起こる。なぜなら指摘をする人も完璧ではない。その状態で上から下へ、という構造で指示をすると「ジャア、オマエハカンペキニデキルンカ」というカウンターパンチが生まれることは想像できます。そこで現時点でのわたしの答えは「架空の理想像」を作ることです。

つまりその飲食店らしさを体現した、実在しない誰かです。大切なのは、その理想像の特徴を皆で言語化していくこと。 そうすると、店のコンセプトを共有した上で、理想像に対して、「一緒に頑張ろう」とあくまでWeを貫くことで、それぞれが自分との差分を設定することができます。そしてその理想像は皆で編集可能なので、当事者意識が生まれ能動的な問いが立ちます。あとは方法論をそれぞれ探してね。ここに余白を持たせることで指摘・矯正は努力に変わります。

(これが実在する人と、指摘を受ける人だとYou & Iという対立構造が生まれます。大人数の組織ではそれもアリなのだと思いますが、少ないチーム構成では歪みになってしまいます。)

「そこ、直して欲しいんだけど!」より、「それってウチららしいのかな?」という問いにしていく。衝突を避けつつ皆で成長していくための手段としてはこっちの方がいいのではないかなと思っています。

うまくワークするかは分かりませんが、今の仮説はこんな感じです!現場からは以上です。ではまた。

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