見出し画像

ポルノグラフィのために

この文章は、ポルノについての批評です。発表のあてもなく書いたものを、試験的にこちらで公開してみました。分量がありますのでご注意下さい。先行研究や個別の作品分析をふまえた論文の形式にはせず、あえて現今のポルノの傾向を大掴みにして、それについての主張をストレートに語りました。とりわけポルノ制作の現場にいる人に届くとよいなあと思っています。

1 はじめに エロくないポルノ

なぜそのエロマンガは、官能小説は、アダルトビデオは、エロくないのか。真にエロいポルノグラフィはいかにして可能か。どうすれば見るものを激しく性的に興奮させることができるのか。こうした問いについて考えてみたい。現代日本の異性愛の男性向けポルノグラフィを想定して論じるが、部分的にでもそれ以外の地域やセクシャリティに通じる論点があったら嬉しい。

本論に入る前に、ポルノ論争、つまりポルノグラフィそのものの是非をめぐる議論に対して、私がどのようなスタンスを取るのか、簡単に触れておきたい。ポルノ反対派は、ポルノグラフィを女性の人権を侵害する「表現の暴力」とみなし、それが存在すること自体を否定する。つまり表現の自由の適用例外に含め法規制を求める。一方で、人権侵害的ではない性的表現物をエロティカと呼び、そちらは許容する。私はポルノグラフィとエロティカの区別は恣意的に過ぎると考えるので、両者をまとめてポルノグラフィ、あるいはポルノと呼び、その規制に反対する立場を取る(本章末尾の補注「表現規制」参照) 。

もっとも、私が以下で主張する「真にエロいポルノグラフィ」は、結果的に多くの面で反対派がエロティカと呼ぶものと重なるだろう。性的な表現の自由を守りつつ、それが性差別的状況に結びつかない道を探り、豊かなエロスの文化が享受される社会を維持したい。これがポルノ論争に対する本稿の立場である。

以下、本論前半(2、3章)では物語を、後半(4、5章)では描写を問題にする。前半の物語論では、「禁止の侵犯」と「欲望の主体」という二つの観点から、一見エロそうに見えてそうではない物語と、真にエロい物語との違いについて考察する。後半の描写論では、「断片的イメージの再構成」と「刺激のインフレ防止」という二つの観点から、刺激的な描写がいかにして可能かを検討する。以上を通じ、今後の日本のポルノグラフィがよりいっそういやらしく扇情的になるための処方箋を提示してみたい。

補注 表現規制
規制に反対するといっても、実在する人間を違法に、あるいは不当な手段で出演させるポルノ(児童ポルノ等)を容認するものでは当然ない。流通における適切なゾーニングも必要と考える。刑法175条のいわゆる「わいせつ物」にあたるものを、違法と承知で流通させるべしという立場でもない。
ただし刑法175条には批判的な立場だ。それは表現の自由を制限するにもかかわらず、「わいせつ概念」自体の定義が曖昧、法益の根拠も薄弱、よって違憲だと考える。しかしながら、戦後の判例は合憲判断を示しており、それをめぐる法学上の議論は本稿の任を超える。やむなくここでは、現行法による規制を追認する。よって、本稿がその規制に反対する「ポルノグラフィ」とは、「わいせつ物ではないエロい表現物」である。語義矛盾に聞こえるかもしれないが、現に世の中に流通していて、今のところ摘発されていないポルノグラフィの全てが、まさに「わいせつ物ではないエロい表現物」と呼ぶしかないものなのだ。
どういうことか?従来の判例において、わいせつかどうかの基準は時代や文脈とともに変動するとされ、警察が摘発するかどうかの基準も事前に明示されることはない。つまり、個々のエロい表現物がわいせつかどうかは、実際に摘発され裁判で判決が出るまでわからない。日本の司法と行政によるこうした恣意的なわいせつ概念の運用は、あらゆる性的表現に対してわいせつ物と化す潜在的可能性を与える。
一方、摘発され有罪となるまでは、その表現がどれほどエロくても、危険なほど見る者の性的興奮を喚起したとしても、それはわいせつ物ではない、ということになる。したがって、日本におけるポルノグラフィとは、常に「(今のところは)わいせつ物ではないエロい表現物」と呼ぶしかないものなのだ。


2 禁止を侵犯すればいいというものではない


禁忌(禁止されたこと)を侵犯する物語は、ポルノグラフィにつきものだ。ここでいう「物語」とは、性行為の状況設定の語り方のことである。つまり、どのような相手と、どのようななりゆきで、どのようにして性的行為を展開するのか、ということだ。禁忌侵犯の物語は、たとえば、同意のない無理矢理の性行為(強姦、痴漢、窃視等)、同意があったとしても法的・倫理的に許されない相手との性行為(近親相姦、人妻、幼児等)、あるいはアブノーマルとみなされる性行為(SM、乱交、スカトロ等)を扱う。それらの表現はしばしば暴力性をおびる。非倫理的であろうが暴力的であろうが、それでエロくなるなら物語のなかでは好きなだけ禁止を踏み越えてくれてかまわない。しかしながら現に流通しているそれらの多くはエロくない。これが本稿の出発点だ。

もちろん、多くの人々が「禁止の侵犯」をエロく感じるからこそ、これらの「やってはいけない」とされる性行為をレーベルにしたポルノが広く流通しているのだろう。よく知られるように、ジョルジュ・バタイユも『エロティシズム』において禁止の侵犯をエロティシズムの本質だと論じている。きわめて単純に言えば、動物のように丸出しにしたおっぱいを見るより、見てはいけないものとして隠されていたおっぱいを見る方がエロいということだ。たしかに禁止はエロスに貢献する。それを否定したいわけではない。問題は、「禁止しさえすればエロくなる」という単純な思考だ。

念のため禁止をめぐるバタイユの思想を確認しておく。彼のいう「禁止の侵犯」は、人間性についての一般理論である。「禁止」とは、人間を動物とは異なった存在にする「社会的慣習」の別名であり、その基礎をなすのが死と性をめぐる禁止だ(殺害衝動のまま殺してはならず、生殖衝動のままセックスしてはならない)。死と性とは、個人的な生を超えて種としての生の連続を成り立たせるという意味で相補的な事象であり、ゆえに性的快楽の根源は死と暴力の不安に密接に結びついている。「侵犯」とは──その究極が殺し犯すことだ──このような禁止された生の根源への還帰である。人は侵犯を通じて個的自己を失い、生の全体性へ融合する快楽を得る。これがエクスタシー(自己を脱すること)だ。こうした理論によれば、性的快楽は暴力的禁止侵犯と根源的に結びついている。

なるほど、暴力とエロスとが近接した表現物は、諸文化にひろく観察される。日本においても歌舞伎の嗜虐表現、大正から昭和初期のエログロ(江戸川乱歩の小説や伊藤晴雨の責め絵など)の例がすぐに思い浮かぶ。人間の本性において、性的欲望は死や暴力にまつわる興奮と隣接しているのかもしれない。日本においてこうした思想が文化的なポピュラリティを獲得したのは、サドやバタイユを受容した澁澤龍彦などが担った1960年代のアングラの時代だった。今風に言えば、それらは「やばい」(危険であり、それゆえにクールな)文化だった。事情は西洋の知識界においても同様だった。アンドレア・ドゥウォーキンはポルノ批判の古典『ポルノグラフィ』において、リベラルなインテリがこうした文化を賞賛するのを激しく批判した。ドゥウォーキンによれば、それは現実の女性への暴力と同根だからだ。

私はその批判に同意しないが、それにしてもアングラ・インテリたちがバタイユ的思想を称揚したことには負の側面があったと思う。エロティシズム表現(ポルノにせよ、文芸やサブカルチャーにおける性表現にせよ)において、暴力的な禁止侵犯の物語の流通を後押しした、あるいは少なくともそれに文学的・哲学的なお墨付きを与えたことだ。問題は、バタイユ的思想それ自体というよりも、その安易な応用にある。昔も今も、抵抗する女が暴力的に犯されて快楽に堕ちたり、モノのように蹂躙されたりするといった展開を辿るポルノは多い。それらはしばしば「型どおりに禁止を侵犯しておけばエロくなる」と安易に思い込んで、真にエロい状況設定の探求を怠っているように私には思われる。仮に性的欲望が死や暴力と切り離せないとしても、法や道徳を侵犯して暴力的に女を犯す物語が、それだけで自動的にエロくなるわけではない。

次のことをはっきりさせたい。「エロい」という感覚は、「侵犯の興奮」──社会的に禁止されている行為や、過激すぎてアブノーマルとみなされる行為に及ぶ際のドキドキするような背徳的感覚──とイコールではない。そもそも、単純で純粋な「エロい」という感覚が存在するわけではない。不安を伴う侵犯の興奮は──さらにはバタイユの言うようにそれを通じて到達するかもしれない「個を脱して他者と溶け合う恍惚」は──エロいという感覚を構成する重要な要素であるが、唯一の要素ではない。ホルモン分泌に依存する動物的交尾衝動、恋愛成就の多幸感、支配欲の充足、皮膚・粘膜接触の触覚的快楽、幼児退行、フェティシズム等々、数え上げれば切りがないが、「エロい」という感覚は、これらの諸要素の複合であり、侵犯興奮(あるいは他の要素)に還元されるわけではない。にもかかわらず、ポルノグラフィの量産化時代において、特定の感覚要素を、エロいという複合的・全体的な経験と単純に同一視しするような作品が横行するようになった。私はそれを「勘違い」と呼びたい。

「おいしい」という感覚と比較するとわかりやすいだろう。味覚には様々な要素がある。その中で、辛さというのは実は痛覚だという。それもまた他の要素との組み合わせで「おいしい」という複合的・全体的な感覚を構成する。単純で純粋な「おいしい」という感覚があるわけではないし、おいしさが辛さや甘さといった特定の一要素に還元されるわけでもない。辛くておいしい食べ物があるとしても、辛さだけがそのおいしさの理由ではない。しかし、感覚が未熟であったり、強い刺激にさらされすぎて麻痺してしまったりしている者は、甘い、辛いといったもっとも顕著な刺激しか認識できない。そしてその強度を、その他の感覚と複合した全体的な感覚である「おいしい」と勘違いしてしまう。

暴力的な禁止侵犯の物語を愛好する者は、食べ物の嗜好における「辛いもの好き」のようなものだ。彼はやがて、辛ければ辛いほどうまいと勘違いするようにして、やってはいけない行為であればあるほどエロいと勘違いしてしまう。無理からぬところもある。逆の場合を想定してみよう。全く禁じられていない二人のセックスを描くようなポルノグラフィ。愛し合う二人のセックス。恋人同士のセックス。夫婦の間のセックス。物語としては全く扇情的に聞こえない。そこは私も同意する。では禁じられた関係や行為を描こう、となるのもよくわかる。

だが、性的な興奮を構成する一要素としての侵犯認知(俺はやってはいけないことをやっている!)や暴力的支配の感覚(女が俺に屈服している!)が自己目的化して、性的興奮と主従逆転してしまっては、もはやそれはポルノではあるまい。陵辱の物語に過度に興奮する男を例にとる。彼は、物語のなかで女がいやがって抵抗すればするほど興奮する。禁止の強度が高まるからだ。彼は禁止こそが彼の欲望の原因だと「勘違い」している。勘違いとはいえ、彼はきっと本当に性的に興奮している。ただその興奮は、彼の心の回路の中において暴力的禁止侵犯に伴う興奮が性的興奮とイコールのものとして誤配線されてしまった結果としての興奮だということだ。

こうした誤配線=勘違いがどうして起こるのか。それはここでの関心事ではない。おそらくいろいろな誤配線を抱えて生きることこそ人間の実存なのだろう。パリ人肉食事件の佐川一政のように、女性に対する食欲と性的欲望とを勘違いする人間もいる。ただ、「それを言ったらおしまいよ」である。つまり、「人は大なり小なり狂っている。エロも人それぞれ」で話が終わってしまう。既存のポルノの過剰さの多くは、そうした「実存に根付いた狂気」ゆえではない、というのが本稿の立場だ。

仮に陵辱の物語を描くとしても、そこで重視すべきは暴力的な禁止侵犯の感覚がその一部をなすところの、全体としてのエロスの感覚であるはずで、禁止の侵犯や暴力それ自体ではない(しかも、次節の論点を先取りすれば、このエロスが「男が抱える欲望」に根ざすものである限り、陵辱の物語は根源的に真のエロスから遠ざけられていると私は思う)。そこをわかっていない凡百のポルノ作家は、「禁止」マークを貼り付けておけばエロくなるといわんばかりに、安易な禁止侵犯の物語を語る。禁じられた関係にある女をまるで記号のように配置して、「はい、レイプに抵抗する女だから興奮するでしょ?」「妹だから興奮するでしょ?」「操を守ろうとする人妻だから興奮するでしょ?」──あとはフォーマット通りに禁止が踏み越えられていくプロセスを描写していく。そんなものが、エロいといえるのか。


3 主体が欲望を所有するのではく、欲望が主体を飲み込むのだ

上述したように、禁止侵犯の物語に頼ってはいけない。むしろ禁止を侵犯するほどに人を突き動かすような欲望をこそ語らなくてはならない。それこそが、真にエロい物語だ。では、そのように人を突き動かす欲望とはどのようなものか。それは、男や女が主体的に所有(possess)するような欲望ではない。むしろ男や女が、それに所有され=取り憑かれて(possessed)主体を失ってしまうような欲望なのだ。

よくあるポルノグラフィの物語はそうではない。多くの場合、男女のどちらかがあらかじめ欲情している。つまり、欲望を所有している。彼/女は、欲望の所有者として、主体的に行動する。つまり、相手を誘惑したり、オーケーサインを出したり、無理矢理襲ったりする。彼/女は、誘惑するにせよ襲いかかるにせよ調教するにせよ、相手を性的に興奮させるという目的のために技を尽くし、相手が気持ちよかったり欲情したりすることを意図的に仕掛ける。ポルノ鑑賞者は、主体(誘惑したり襲ったりする側)と客体(誘惑されたり襲われたりする側)のどちらかの立場に身を置いて、このシチュエーションを楽しむ。しかし、いずれの立場にせよ、主体が客体に対して行為するようなナラティブは、本質的なエロには到達しないのではないだろうか。

まず、男の鑑賞者が主体(行為者)のポジションに同一化するとき、すなわち、男が女を感じさせるというタイプのポルノグラフィの場合。作品中の男は、女を興奮させ彼を受け入れさせ絶頂に導くという目的に向けて行動する主体である。たしかに女の興奮は彼の興奮でもある。しかし主体である以上は、性的興奮の度合いも我を失わない(=主体を失わない)程度にすぎない。その立場に身を置いた鑑賞者の興奮も、所詮その程度だ。多くのアダルトビデオは、男優が誘惑者ないし性交の主導者という役割なので、こういうケースが多い。それは本質的にエロくない設定なのだ。では、行為を主導しながら自分自身も興奮しまくるような男優、たとえば腰を振りながらさかんによがり声をあげている男優ならよいのか。欧米のポルノビデオにはよく見られるケースだ。そこに、まるで自分で自分を励ましているような滑稽さや、自己陶酔に巻き込まれる気持ち悪さを感じて、同一化をためらってしまうのは、私だけではあるまい。

一方、客体の立場に身を置くと(つまり女によって責められる場合)、自分ではどうにもならないような性的興奮に飲み込まれるわけで、ポルノ鑑賞としてはよりエンジョイアブルであるように思われる。しかし、特に男性の被誘惑者は、多くの場合、行為の主体へと反転する。前半では女に責められていた男が最後は上になって女をいかせる。エロマンガや官能小説には非常によくあるパターンだ。では、女が一方的に誘惑者ないし責め手であり続ける場合(たとえばアダルトビデオの「淫語・痴女もの」)の場合ではどうか。そこでもやはり、意識的に淫語をしゃべっている主体的な女(我を忘れていない女)に対して、興醒めしてしまうことはないだろうか。

結局、どちらかが主体的にエロいことをしようとしている時点で、すでにそれはエロい状況ではない。主体を超えたなにかに突き動かされて、どちらからともなく欲情してしまい、ともにわけがわからなくなってセックスに溺れてしまうことこそ、私の考える真にエロい状況である。ヰタ・セクスアリスではないけれども、開き直って人生で忘れられがたいエロい物語の設定をあげてみる(記憶の中で変形しているかもしれないが、あえて典拠を確認しない)。

幼い頃に見たアニメ『ルパン三世』の一エピソード。敵の薬によってエロい暗示にかかった峰不二子が棺桶の中から手を伸ばしてルパンを引きずり込んで蓋が閉まるシーン。小松左京の小説『さよならジュピター』で主人公が女と再開して過去を回想するシーン。彼らがまだ少年少女であった頃に、たまたま雨で洞窟に閉じ込められてしまい、うっかり性交直前までいったことを思い返す。やまだないとのマンガ『ヤング・アンド・ティアーズ』。主人公が恋人の友達である女の子と恋愛相談しているうちに、なんとなくエロい雰囲気になってしまってお互いに好きでもないのにセックスしてしまうシーン。いずれにも共通するのは、男女が相互に相手の発情を喚起していったり、閉鎖的状況や薬品といった主体を超えた力に流されるようにして行為に至ってしまうことだ。

上記の例がポルノではないことからわかるように、こうしたエロいシチュエーションは非ポルノの文学作品やエンターテインメント作品にしばしば見られても、ポルノグラフィには少ない。そして、ポルノグラフィではないエロい場面は、どんなにエロくても実用的ではない。もちろん優れたポルノグラフィは、性行為に至るまでのシチュエーション描写や、性行為自体の描写において、実際に上記のような「主体を超えた発情」の表現をおこなっている。それが一般的になることを期待したい。

どちらかが欲望の主体なのではなく、欲望が両者の主体を飲み込んで否応なく性行為へと押し流す。そこには相手をいかせるとか自分がいくとか、そういう「行為の目的」も存在しない。ただひたすら、お互いに触れ合い、舐め合い、貫き包み込み、快楽を与えあわずにいられないからそうする。そんなふうに展開する性行為の状況を、私はエロいと思う。エロスとは、本質的にそのような主体を超えたなにかだろう。


4 視覚的イメージの断片を再構成せよ

ポルノグラフィにおいて性行為描写そのものがエロくないことは致命的だろう。そして、致命的なものばかりが流通している。その理由ははっきりしている。刺激に対する理解が間違っているからだ。とりわけ現今の日本のポルノ映像(いわゆるアダルトビデオ)においてその問題は深刻である。アダルトビデオは、導入部から前戯にかけての描写にさほどの問題はない。問題は男性器に対する刺激の描写である。端的に言って、同一イメージの描写時間が長すぎる。

たしかに実際の性行為においては、男女とも継続的な刺激の反復によって絶頂へと至る。反復によって累乗される快感の力は凄い(性的快感に限らず)。しかし、行為自体のエロスと、行為の表象のエロスは異なる。行為の視覚的な表象、たとえば「騎乗位の運動の映像」が何十秒も反復継続したら、その体勢と行為のもたらすエロスは摩耗する。実際の行為においては反復によって刺激は減退せずにむしろ蓄積されることもしばしばだが、行為の表象においては刺激は反復とともに減退する。要するに、慣れて飽きてしまうのだ。

そもそもアダルトビデオ全般に、編集していないかのように、つまりノンストップで行為を連続的に撮影しているかのように見せようという態度が見られるように思う。これはおそらく、疑似ではないリアルな行為を忠実に撮影しているというファンタジーを視聴者が期待するからなのだろう。そんな期待は教育して捨てさせてしまおうではないか。いずれにしろ編集はしているのだから。一般に映画はモンタージュによって出来事を美的に再構成する。アダルトビデオもその基本に倣うべきだ。時間的にも画角的にも断片的なイメージを組み合わせることによって、現実以上のエロい出来事を再構成すべきだ。

映画のエロティックなシーンや、ミュージックビデオのセクシーな映像、あるいはアダルトビデオ冒頭のイメージ映像などは、多くの場合、せいぜい数秒の(時間的断片)、唇や肌といった身体部位のクローズアップ(画角的断片)を組み合わせてエロいシーンを構成する。こうした表現を、性行為の場面でも普通に行ってほしい。しかし、「現実以上でなくていい。現実の性行為があたかも目前で再現されているかのようなイリュージョンが大事だ」という立場から、こうした意見に反対する人もいるだろう。バラバラのカットをつないだら、連続的な現実の忠実な再現ではないことがあらわになってしまうではないか、というわけだ。しかし、そうやって現実的であることを優先する反対者は、「現実」を誤解している。

どういうことか。あなたが現実の性行為をしていたり、それを近くで目撃しているとしよう。そのときに、あなたは何を見ているのか?それは、けっして全体を固定的に俯瞰した眺めではない。あなたは絶え間なく運動する眼球とともに様々なスポットに焦点を寄せたり引いたりしながら断片的なイメージを脳内で組み合わせて「現実」を構成しているのだ。下着がはずれて胸があらわになったほんのわずかな時間の中でも、視界いっぱいを占領する乳房、の中で特に焦点をあてた乳首の色や形、の周囲の皮膚の肌理、から引いて全体像として収めた上半身、の一部を流れる汗の一滴、あるいは清楚な着衣の胸のふくらみの記憶映像のフラッシュバック、そういったもろもろの断片的な視覚像が生じる可能性がある。それらが統合されて、もしくは統合されずにとっちらかってあなたの心をかき乱すことが、現実に生じている視覚的経験なのだ。ロングショットの全身構図にしろ、局部のアップにしろ、同一画角が継続的に示される映像は、実際には「現実の性行為があたかも目前で再現されているかのようなイリュージョン」からほど遠いと言わなくてはならない。

だから、イメージの編集と再構成を怖れてはいけない。この点で、マンガは優れている。コマとコマの時間的隙間が大きいというメディアの特性上、マンガは断片化されたイメージの再構成であることを積極的に受け入れている。日本のマンガは映画からモンタージュを学んだといわれるが、行為や身体部位の断片的図像を大胆にモンタージュすることによってエロいシーンを描写する技法を、エロマンガはどんどん進化させている。

一方で、アダルトビデオはカットの組み合わせについて非常に保守的だ。もちろんそれは、映画(日活ロマンポルノ等)からアダルトビデオへ至る映像ポルノの歴史のなかで、「本番」が当たり前のことになってきたプロセスと無縁ではない。重点が、「いかにエロい映像を作り出すか」から「いかに本番のリアリティを伝えるか」にシフトしたのだ。そして、そこでのリアリティは上述したとおり誤って理解されている。

繰り返すが、誤解しているのはもっぱら視聴者だろう。映像制作者の多くにとって上述の事柄は釈迦に説法であったはずだ。かれらが同一刺激の反復で興奮が減衰するような映像を量産するのは商業的理由によると推測する。つまり、想定される「視聴者の期待」──連続して切れ目がないことがリアルだと考える視聴者の期待──に応えた作品の方が売れると信じているのではないだろうか。少なくとも、視聴者が求めていないのにわざわざ撮影と編集のコストをかける必要はないと認識しているのだろう。あるいは、ナマの素材を提示することに格好良さを感じる、ドキュメンタリーの美学のようなものが背後にあるのかもしれない。

いずれにせよ、そこで生みだされる映像は、人が断片的知覚から再構成する真のリアリティを、真にエロい経験を、取り逃がしている。構成された映像であることをなるべく隠し、「本当におこなわれたエロい性行為」の忠実な記録であるかのように演出することなど、エロスのリアリティとはなんの関係もない。編集と再構成を通じた真にエロいイメージを提示し、視聴者に次のことを理解させなくてはならない。重要なのは、エロい性行為を撮影したかどうかではなく、映像がエロいかどうかなのだということを。


5 刺激のインフレをおこしてはいけない

前章では、現実の行為と行為の表象とでは、刺激の論理が違うと述べた。しかし、共通していることもある。強い刺激を受けたら、それよりも弱い刺激に対しての感度が下がるということだ。だから、ポルノグラフィに限らず、食事だろうが舞台芸術だろうが、たいがいの快楽提供において、弱い刺激から強い刺激へと順を追って強度を高めていくのが鉄則である。万物に序破急があると述べた世阿弥の頃からわかっていることだ。

なぜ最初は弱い刺激なのか。濃い味のものを食べたら感覚が麻痺して繊細な味の違いがわからなくなるから、という消極的な理由もある。しかしより積極的には、弱い刺激からはじめたときに、それを感じとろうとして私たちの感度が鋭敏になり、引き続くより強い刺激から得られる快楽が増大するから、というのがその理由だ。現実の性行為における愛撫がもたらす触覚的刺激についても、ポルノグラフィにおける愛撫の描写がもたらす視覚的刺激についても、それは共通して言えることだろう。

もちろん、「だんだん刺激を強くしていくようなありきたりの順を追ったセックスよりも、いきなり乱暴にされる方が好き」といった意見があることは重々承知している。ここに本稿のような美学的な考察(概念によって一般的に経験を語ろうとする考察)の限界がある。しかし、繰り返すがこの程度の一般論すら理解できていないポルノグラフィが溢れかえっているのだ。

この点ではマンガが大きな問題を抱えているように思われる。メディアの条件にも原因がある。たいがいのエロマンガは、雑誌に掲載される短編である。少ないページ数内で様々な行為を描くために、どうしても急展開で刺激の強い行為を描いてしまう。だが、そうした条件と関係なく、多くの作家は上述したような「強い刺激に感覚が麻痺してしまう」というありきたりの問題を理解していないように思われる。あらかじめ欲情している女が男を押し倒してズボンを脱がして男性器を口淫したり胸に挟んだりするところからスタートする作品のなんと多いことか。そういうはしたないことはやめなさい、と言いたい。

胸が好きなら描けば良い。だが、いきなりそれをしてしまったら、その行為の価値は下がる。また、その先にはそれ以上に刺激の強い行為を描かなくてならなくなる。エロくするために刺激の強い行為を並べ立てることは、あたかも最初に味の濃い料理を出して、その先もっと濃い味の料理を出し続けていくようなものだ。こちらの感性が鈍磨してしまって、せっかくの「エロい行為」がありきたりになってしまう。エロい行為のインフレが起こるのだ。結果、痒いところをどんどん強く掻いて掻き壊してしまうような、ひどいエロマンガが生み出されることになる。女性器に男性器を挿入することをいかにエロティックに描くかをないがしろにして、女性器の奥にある子宮口を刺激する描写だとか、器物による常軌を逸した「責め」の描写といった、「より強い刺激」に走る。SMやレイプならより残虐に、輪姦や乱交ならより多人数に、というわけだ。もちろん、小説やアダルトビデオその他のポルノグラフィにおいても、刺激のインフレとそれに伴う鬼畜的な行為のエスカレーションは、広く見られる現象である。

弱い刺激からはじめなくてはいけない。たとえば胸を揉むという行為。それよりも刺激の弱い描写からスタートして胸を揉む描写に至れば、この行為の価値は高まる。しかし、いきなり胸を揉んでしまったら、それがその作品中のミニマムな性的刺激になってしまう。実際にありがちな描写として、胸を揉まれてスイッチが入ったように欲情する女というものがある。現実において、なんの文脈もなくいきなり強く胸を揉まれて快感を得る女などというものは、ほとんど存在しないだろう。エロい気分になって、エロい体のモードになって、身体に揉まれるべき文脈が備わったところで──いわば体が「耕されて」から──触れられたときに、胸は性感を感じる器官となる。そもそも「性感帯」とは一般にそういうものだろう。耳が性感帯だという女がいたとしても、彼女が「うー痒い」などと言いながら自分でがりがり掻いているときには、耳は端的に痒い部位にすぎない。

性的な行為を描く際にも、上記のような「耕し」が重要だ。それは、単にセックスに至るまでのコミュニケーションをじっくり描くとか、前戯を長く描写するといったことに留まらない。たとえば、男の主観的風景を表す1コマで着衣の女の胸のアップを描くといったひと手間をかけるといったことが大事だ。これが、いわばポルノグラフィにおける序盤の「弱い刺激」である。それによって、「胸」にはその男にとって欲望の対象であるという価値が生まれる。その女の胸に対する妄想が高まったところで、胸がついにあらわになる描写にも1コマ使う。さらに「胸」の価値は高まる。そうやって価値の高まった胸でなんでもしてもらえばよいではないか。

ピアノで壮大な音を感じとらせようとするなら、はじめからめったやたらに強く鍵盤を叩くのではなく、ピアニッシモを聞かせておいて、そこからフォルティッシモまでの「刺激の変化の大きさ」によって大きな音を感じとらせた方がよい。能は始まってから1時間以上もほとんど動かないがゆえに、クライマックスでのほんの少しの所作が劇的な効果を発揮する。性的刺激を強くしたいなら、こうした「刺激の論理」を理解する必要がある。


6 むすび

真にエロいポルノグラフィは少ない。しかし、それを実現する方策は凡庸なほど明確だということを、述べたつもりである。物語においては、「その相手とセックスすることが禁じられている」という物語に頼りすぎず、ふたり──でも何人でもいいが──が押し流されるように発情していくシチュエーションを設定する。性行為の描写においては、弱い刺激からスタートして性的行為のインフレを防ぎ、同一イメージの反復を避けて断片的イメージを再構成する。せめてこの程度の原理をふまえるだけで、無駄に過剰な描写をする必要はなくなるはずだ。それらの描写の多くは、著者や鑑賞者が通常の行為には満足できない変態だから採用されたのではなく、エロスへの感受力を自ら鈍らせてしまったために刺激を強くせざるを得なかった結果に過ぎないのだろうから。

私は、なにもポルノの道徳的な健全化を推し進め、反ポルノ派の推奨するエロティカしか存在しない世の中にしたいわけではない。多様な性的嗜好や妄想に応えるポルノグラフィが生みだされることを、否定しようとは思わない(もちろん、児童ポルノのような現実の人権侵害がないことは当然の前提である)。たとえ不味くても、辛いものを嗜好する人が行く激辛カレー屋があっていい。また、激辛でなおかつ美味いカレー屋のように、過激で変態的でなおかつ真にエロいポルノグラフィも存在することだろう。

しかし、ここで論じたように、現存する多くのそうした過激なポルノグラフィは、やむにやまれぬ変態的実存の要請というよりは、作り手と受け手の双方がエロいということを誤解した結果として生み出されてしまったものだと思われる。そこでの過激な表象の増殖は、私たちのエロスを豊かにするというよりは、むしろ記号化され質的に単純化されたエロスを広めている──端的に言って、私たちのエロスをさらに貧しくしている。あたかもそれは、味が濃いことを美味しいと誤認してしまった人々が、さらに辛いもの、さらに甘いもの、さらにしょっぱいものを求め、それに応えてますますそうした食べ物が氾濫し、人々の味覚をさらに単純化していくという悪循環のようだ。

こうした過激なポルノグラフィにおいて、しばしば女性の描き方が差別的・暴力的な様相を呈するのは確かだろう。反ポルノ派はこうした表現を規制しようとする。私は規制に反対だが、そうした表現が世の男たちに悪影響を及ぼすと懸念すること自体は、理解できる。その懸念に対する本稿の立場は、よりエロいポルノグラフィの供給が、必然性なき差別的・暴力的ポルノグラフィの比率を減少させる、というものである。人々の味覚の成熟とともに味が濃いだけの料理店が淘汰されうまい料理店が残っていくように、本稿の主張する「真にエロい」ポルノグラフィが入手可能になれば、それが支配的になっていくことを私は信じる。実際にそうした傾向は生まれつつあるように思う 。

ポルノグラフィは真にエロくあってほしい。そしてこの国が、真にエロいポルノグラフィが享受される国、言い換えるなら、人々が自らの欲望と妄想を適切に理解して楽しむことのできる国であってほしい。本稿がその一助となることを願っている。

〈了〉

いいなと思ったら応援しよう!