観劇メモ:「Medicine メディスン」
このnoteは、自分用の感想書き散らかしです。誰への配慮もしていない文章です。ネタバレを避けたい方はお読みにならないでください。
また、自分が感じたことを書きます。解釈の余地が大きい作品なので「え?」「違う!」と思われる部分が多々あると思いますが、突っかからずスルーしてください。
「Medicine メディスン」@兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールの2024/6/15 17時公演と、2024/6/16 12時公演に行って参りました。
観劇の経緯
キャストさんを目当てに観劇を決めることが多いんですが、今回は違います。エンダ・ウォルシュ氏作・白井晃氏演出、ってクレジットを見て「行く!!」と決めました。
(読まなくていい個人語り)
昨年11月、コメディの観劇後に「なんかこう…コメディはコメディでいんだけど、コメディじゃない作品も見たいな…必死で食らいついていかないと理解できないような難解な作品に触れたい…」という欲求を覚えてしまいました。過去のそういう観劇体験で印象深かったのはどの作品だろうかと考えたときにパッと思いついたのが「バリーターク」。「エンダ・ウォルシュ氏の戯曲の日本上演予定はないのかな?」と調べたところヒット!えっ!あるやん!!しかもバリーターク同様に白井晃さんが演出!タイミング良いな!!行く!!!
バリータークを体験した私はなんとなく作品の傾向が分かるので「解釈のために複数公演観たい」と考えます。そして、なんとなく作品の傾向が分かるので、複数観劇するにも一晩寝てから次の公演を観劇したいとも考えます。マチソワは心がしんどいだろうからキメたくない…(苦笑)。
というわけで、土曜ソワレ&日曜マチネの2公演のチケットを取りました。チケ発日時が移動中(推しバンドのLIVE遠征)で、新幹線の中で必死こいてスマホ操作しました。2公演とも2階の最後尾列ですけれど、全然構いません!無事に自力で取れてよかったです…。
(個人語りここまで)
ラストシーンやばすぎ泣いた(←語彙力の喪失)
初見はラストシーンで涙があふれました。観劇当日はラストシーンを思い返すだけでブワッと泣いてしまうほど。思い出し泣き。当日、合計3回泣いた。(2回思い出し泣きした)
新鮮なうちに呟こう、と当日Xでポストしました。
「無言」という選択が素晴らしい…
私がどういう思いで涙したかというと、悲しみとか哀れみとかではありません。喜びで泣いています。台詞のない表現、舞台という「生もの」だからこそ伝わってくる空気に対して「なんて贅沢な時間なんだ」と感激して涙が出ました。(私は本当に「贅沢だ」って感じたんですけれど、「贅沢」って文字にするとちょっと仰々しいですね。別の表現で言い換えると「豊か」が適切かな。)
何も台詞を発さない、たっぷりとした無言の時間がラストシーンなんですが(体感で2分くらいあったかな…それ以上あったかもしれない)、演劇の表現としてそんな大胆なことを選択できるなんて、すごくないですか?
演出でやってるのかな?でもあの無言の時間こそが本作の頂点なので、ホンで指定されてるのかも…?いずれにせよ、作品と表現へのリスペクトがドバドバ溢れてきました。
愛が伝わってくる
あと、あの無言には「愛」があると思えたのも涙の要因でした。あのシーン、台詞はないんですが効果音でそよ風が吹いています。小鳥のさえずりも聞こえます。穏やかな雰囲気のSEです。
このシーンの直前で、ジョンはメアリー(奈緒さんのほう)に愛の詩を披露しています。愛の詩はジョンのストーリー上に登場するのですが、ジョンは台本(?)に直接詩を書いていません。これは、メアリー(奈緒さんのほう)が台本にしっかりと目を通す動作があるのに(途中で録音音声より先に完璧に台詞を言い、途中からメアリーが没入したことは明確です)、愛の詩を「どんな詩だったの?」とジョンに訊ねているところから分かります。愛の詩を読むのは重要な(超しんどい)エピソードなのに、愛の詩のそのものは存在していない。ジョンは、愛が分からなかった(=愛の詩を書けなかった)んだと思います。
けれど、質問と回答の音声――老いた自分自身の声――を聴いて、「ここには誰もいなかった(年老いるまで生きて、自分に寄り添ってくれる人はいなかった)、きみたちみたいな人(妄想の存在)だけ(が自分に寄り添っていた)」と悟ったジョンは、それに絶望するのではなく、むしろ愛を見出して、夢見た愛を詩で表現します。
その詩の中で、ジョンは「風に乗せて愛がくる」といった内容を詠んでいます。
無言の時間は優しい風が吹いているので、確実に優しい愛が流れているんですよね。愛って情熱的なものだけじゃなくて、こんなに静かで穏やかで優しい愛もあるんだなぁ、とじんわり感じました。(と、タイピングしている間にまた思い出し泣きしました…)
観劇「体験」
後になって考えると、あのラストシーンは、「見られている」役者と「見ている」観客が同じ時を過ごしていて、そこに確実に「私」もいるという体験を得る時間でもあるなぁと思います。
劇中で「見られている」と「見ている」といった内容の会話があります。いかんせん2回の観劇では台詞を十分には覚えられないので、うろ覚え状態で書きますが、
ジョン「誰にも見られたくない」
メアリー(富山さんのほう)「役者は見られるのが仕事。今も誰かに見られている」「プロデューサーが私たちを見ている」
といった発言があります。ストーリーの結構序盤からずっと「見えない誰か」の存在があるんですよね。
この「見えない誰か」に関しては、ジョンが精神疾患を患っているようなので妄想や幻覚を示唆しているところも大いにあるとは思います。が、役者と観客という構図は、進行形で観劇者本人に当てはまるのでドキッとさせられますよね。製作者が、意図して私たちをドキッとさせている気がします。
ジョンが人生を物語るストーリー、それを見ている私たち。ラストでは台詞が発されないので、私たち観客は正真正銘「見る」しかできなくなっています。
ああ、見ている。私たちが見ている。「見えない誰か」として私たちが存在する。妄想でも幻覚でもなく、ここにいる……。
見られている感覚があるのは誰か?
ラストシーンからはちょっと話が逸れますけど、「見えない誰か」に絡んだことを書きます。
「見られている」ことについて感覚があるのは上述の発言があるジョンとメアリー(富山さんのほう)で、メアリー(奈緒さんのほう)はメアリー(富山さんのほう)に「その話(ジョンが言っていたこと:見えない誰か)を信じるの?」と言っているんですよね。二人のメアリーは同じ名前ですが、異なる要素が配分されています。ジョンは、幻覚や妄想について認められたい気持ちと認めたくない気持ちの両方を持っていて、それを二人にそれぞれ割り当てていたのかな、とも思えたりします。
ちなみに、見られる側の役者に関して、メアリー(奈緒さんのほう)が感情を振り乱して「観劇を通して、人生の目的や意味を得るなんて、そんな体験を最後にしたのはいつ?」といった発言をされる場面があります。皮肉がきいてますよね~。
以上!
Xでは、「照明が…」とか「台本の表紙に書かれていたタイトルが…」とか、気付いたり感じたりしたことをポツポツ書きました。まとめ直して、考察というか、My解釈みたいなものを書こうと思いましたが、一旦気力が尽きましたので終了します。苦笑
気が向いたら書こうかな~と思います。
追記
その2を書きました。