海外赴任 その2 赴任迄
内示
200*年の春、香港社責任者の定年退職の時期が迫る中、後任に手を上げていた小生に赴任の内示があった。責任者の1年後の定年を前に今秋に赴任して引き継ぐようというのである。やっと希望が叶う、という喜びとともに家族を帯同するかどうか、という問題が浮上した。上の子供が中学3年生になったところだったからである。子供にとっても母親である家内にとっても高校受験を控えた大事な時期である。小生としては子供たちにとっても海外生活はよい経験であるので帯同を考えた。しかし、家内はあっさりとそれを否定し単身赴任が決まった。
出張
赴任前に、香港、シンガポールの子会社、そして中国工場の視察研修的な出張が組まれた。
小生、これまで丸ドメを自認するだけあって英語に自信がない。まず英語の旅行会話の本を購入。それから中国語の旅行会話の本も必要だと、香港向けの物と購入したのが広東語の会話集だった。この当時は中国に対する知識は本当に皆無に等しかった。
中国本土
この時の出張では、香港、シンガポール、香港と移動し最後に中国を訪問した。香港、シンガポールについては、ただ、料理がおいしい、という程度の感想しか覚えていない。それはなんといっても初めての中国の印象が強すぎたからであろうとしかいいようがない。
香港、シンガポール。そしてまた香港にもどり中国へ入る行程。フェリーで中国深センの福永港へ、そこから車で工場まで行く。
まず、迎えの車であるが、ランドクルーザーのようなタイプの中国ブランドの車、香港、シンガポールは日本と同じ右ハンドル、左側通行だが、中国は左ハンドル、右側通行である。同行者の中では一番若かったので、助手席に乗ることに。
その車の運転が大問題だった。頻繁な車線変更、割り込み合戦、クラクションはならしっぱなし。いまにもぶつかりそうになりながら進んでいく。小生は助手席で、ありもしないブレーキペダルを踏みっぱなし、生きた心地がしなかったというのが第1印章であった。
渋滞している深センの街中をやっと抜けて高速道路に入った。ここでも次々に眼に入る異常事態。高速道路の路側帯を自転車が走り、人が歩いている、はるか先を横断している人がいる。高速の出口付近では通り過ぎてバックしてくる車も。昨今の中国ではこのようなことは無いのだが、当時は酷かったのである。昨今の中国ではこのようなことは無いのだが、当時は酷かったのである。
途中で立ち寄ったサービスエリアのようなところではトイレにびっくり。男の小用のほうは昔の日本にもあった壁に向かってするタイプ。未だにこんな感じか、であったが、大用のほうは、1本の溝の上に腰高の壁で囲われたブースが並んでいる。しゃがんで用を足すのであるが丸見えである。ここで用を足すのはかなり勇気がいるな、と感じた次第。
中国の交通事情の余りの異常さに驚き、ぐったりしながらやっとのことでホテル到着。荷物を部屋において、夕食のお店へ移動した。
後に判るのだが、中国工場では来客があると必ず夕食は大勢での会食、大宴会となる。来客を中心に日本人駐在者、出張者、そして中国人幹部が一堂に会して、中華料理の丸テーブルを囲むのである。この時は、中国国内からも営業が来ていたり、我々以外の日本からの出張者などもあり、10卓近く、つまり100人くらいの大会食であった。
右も左もわからないまま、席に付き、勧められるままお酒・・・白酒・・・を飲んだ。度数は30度程度、小さなグラスで飲む。ちょうどウイスキーをショットグラスで一気にあおる、そんな感じで飲むのである。匂いがきつく、喉を焼く感じであるが、なぜか中華料理の脂っこさ、味の強さと合うのか、結構いけた。(のちに知ったのだが白酒は高級なもの、芽台酒や五糧液は50度を超えるが安いものは30度台前半からあるようである。)
そしてここからが問題。まずは、同じテーブルの人と眼が合うと、白酒を一気に乾杯しなければならない。それが一巡すると他のテーブルの中国人の幹部たちが「飲みましょう」と一人一人やって来る。そうすると立ち上がってまた乾杯、それが延々と続くのである。知らぬ間に20杯、30杯と飲み続けなければならない。のちには、うまくかわせるようにもなるのだが、なんせ初めてなので延々と飲み続けたのである。
因みにこの白酒であるが、深酒してもあまり二日酔いにはならない。ただ、起きたときに白酒特有のにおいが残るのには閉口したが。。。
混乱はまだまだ続く。フロントでどうも英語が通じない。そこで中国語の会話集を取り出して見せるのだが、これがどうも通じないのである。なんで中国語が通じないの??? どうにもこうにも不思議な状態であった。
後でわかったのだが、小生の持って行った会話集は香港用で、広東語、繁体字で書かれたものだった。対して、中国側では北京語(普通語という)、簡体字でないと通じないのであった。尤も広東省の地元の人々は広東語を解するのだが、働いているのは出稼ぎに来ている人たちであり、彼らは広東語、繁体字を理解できない人がほとんどなのである。中国は広く、他にも、上海では上海語、台湾や福建省では福建語が通用しており、飛行場では北京語、英語と広東省なら広東語での放送が入る。今となっては当たり前のように理解しているが、当時はこんな知識もなかったのである。
ホテルの部屋は香港に比して広く割と清潔であった。しかしどことなく臭う。臭いの元を探すと洗面所であった。配水管が日本のようにS字型になっておらず、直管なのである。どうもそのために下水の臭いが上がってくるのだ。これはほかのところでも結構目にし、いまだに馴染めない問題である。
仕事のほうは、どこでも日本語が堪能な現地社員がいて、日本語でできるので特に問題は無かったが、生活、文化などでは戸惑うことが多かった。
中国語の猛勉強と保険の問題
帰国後、赴任に際しての最初に「解決すべき問題」として浮かんだのが、中国語である。赴任先の香港では小生のへたくそな片言英語が通じるからまだいいが、先の出張でも経験したように中国サイドでは英語は殆ど通じない。中国語オンリーである。赴任すれば一人で中国工場迄行かなくてはならない。総務とも相談して、語学学校を探すことにした。9月の末には赴任しなければならず、出張から帰ったのが5月半ば。残された時間は限られている中、個人レッスンで最低限のことをマスターし、後は現地で磨きをかける、という計画でスタートした。どうにか通勤途上の駅で個人レッスンをやっているところを見つけて通うことにした。
その語学学校は若い中国人女性講師が親切に指導してくださった。講師は何人もいらっしゃり、小生の希望時間に合わせて授業を設定できたのはありがたかった。ところが、最初の内はよかったのだが少しずつ進んでくると困ったことが出てきた。講師の先生により発音が微妙に違って聞き取れる先生と聞き取れない先生が出てきたのだ。当時はその理由が判らず、上海出身の聞き取れる先生に絞って授業を受けるようにして対応した。後になって判ったのだが、北京など華北のほうの人の中国語は舌を丸めて発音する巻き舌音が強いのに対し、華南の台湾や広東省、香港などの人の中国語は巻き舌音が弱く、上海など華中のひとはその中間当たり。どうやら北京出身の先生と台湾出身の先生の授業が交互に来ると混乱していたらしい。
レッスンは最初の発音練習の後は会話中心。取り敢えず中国で移動したり、買い物したりというレベルの会話から始め、読む、書くという方は後回し。30時間の予定で始めたレッスンは、25時間ほどでタイムアップとなったが、それでもどうにかこうにか、初歩的な会話はできるようになっていた。多分、小生の人生の中でこれほど語学の勉強を一生懸命やったのは初めてのことだった様に思う。
そうそう、教材はきちんとした本だったが、独習用に渡されたCDはどう見てもコピー品。違法だよな、と思いながらも使用して勉強した。しかしこれくらいは後に中国で見たコピー天国から見れば可愛いものだと知ることになる。
次に問題となったのが、海外駐在者としての心構えなどのことである。なんせ初めてで、何もわからず不安だらけ。総務に聞いても当時の海外駐在者は皆海外出張が多かった延長線上での赴任であり、総務は大して支援せずに赴任者が対応していたらしい。いろいろ調べて書籍を購入したり、日本在外企業協会のセミナーなど受講し知識を蓄えた。調べていくうちに不安になったのが保険や、医療などの問題である。中国工場ではウェルビーのサービスを契約していたが、香港、シンガポールでは同じような契約がない。調べて海外駐在者用の保険に入るようにお願いして契約してもらった。この時はこれがすぐに役に立つとは思わず、気休めにはなるだろうくらいに考えていたのだ。
赴任
いよいよ赴任である。出発は9月の20日ころ、9月中は出張扱いで10月1日から赴任扱い。
まずは、ホテルに仮住まいで家探し。ホテルは佐敦の龍堡国際賓館、ここは香港ボーイスカウト連盟の持ち物らしい。ロビーにはボーイスカウトの旗やベーデンパウエル卿の写真が飾られていたのにはびっくりすると同時に感動した。(小生ボーイスカウト経験者)
日本人の多く住むエリアは主に二つ。香港島の太古周辺と九龍半島のホンハム周辺。いずれも日系スーパーがあるエリアだ。先任の駐在者は太古城に住まわれていたので、小生も太古城中心で探した。香港は土地が狭く、高層マンションが多い。築年数も古いものが多いが、家賃は高い。何件か見たが、太古城のユニー(現在はAPITA)の上の中層階の部屋を選んだ。リビングダイニングと2ベッドルーム。2ベッドルームとはいうが、1つはシングル2台で一杯という小さい部屋、サービスルームのようなものだ。ダブルベッド、シングルベッド、テレビ、ソファ、冷蔵庫、エアコン3台、洗濯機と乾燥機、電子レンジ、給湯器、ダイニングテーブルとイス、そして作り付けのクローゼットという家具付き物件。香港のアパートのかなりの部屋が家具付きで賃貸に出ている。我々海外からの駐在者にはとても便利である。
携帯電話、銀行口座の開設など、香港事務所のスタッフが手伝ってくれて何とか生活できるようになったのは香港到着後10日余り経ってからだった。
それにしても、初めての海外での生活に緊張と興奮は隠せなかった。
右も左もわからない、見るもの聞くもの初めてのものばかり。食べ物、飲み物でも随分びっくりしたものだ。
つづく
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