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海外赴任 その3 大変だ~
大変だ~
着任後2週間ほどした月曜日の朝
赴任後は毎日新しいものに出会い、興奮と戸惑いの連続だった。大事件が起きたのは少しずつ生活にも慣れ始めた香港についてからおおよそ2週間ほどたった頃だった。
月曜日の朝、
「おい、Iさんが来ないぞ、電話しても出ない。」
営業の責任者から声がかかった。
「なんかおかしい。今までこんなことはなかった。ちょっと様子を見てくる。」
営業の責任者Nさんは、現地社員のトップを連れてIさんのアパートに向かった。
「倒れていて意識がない」
Nさんたちから連絡が入った。
アパートのベルを鳴らしても応答がなく、隣に住んでいた大家さんがカギを開けてくれたそうだ。後から聞いたのだがどうやら倒れたのは日曜の朝だったらしく、ベッドで意識を失っていたそうだ。救急車を呼びIさんはすぐさま病院へ運ばれ、集中治療室へ入院した。
まずは日本本社へ連絡をし、本社からIさんは独身で合ったのでIさんの係累に連絡をしてもらった。そしてすぐにIさんの妹さんご夫婦が来港することとなった。本社からは総務部長がアテンドすることになった。
2日後だったと思う。妹さんご夫婦、総務部長が到着。筆者が空港まで出迎え一緒にタクシーで病院へ向かった。びっくりしたは集中治療室というのだが個室ではなかったこと。大きな部屋にビニールのカーテンで完全な囲われた中にベッドが置かれている。大きな部屋にそんなベッドが6つほどあっただろうか。不思議な感じがしたのを妙に覚えている。
意識の無いIさんと対面後、妹さんご夫婦と総務部長を長旅の疲れもあるのでホテルまでお送りした。
そして翌日、Iさんは意識を取り戻すことの無いまま息を引き取られた。かろうじて妹さんご夫婦は死に目に間に合ったのであった。
異国の空の下で倒れ亡くなったIさん、さぞご無念、心残りで有ったであろう。改めてご冥福をお祈りしたい。
ここ迄は怒涛の如く時が流れていった。
赴任早々にこのような大問題が発生し、そこからさらに業務上も生活上も様々な問題が発生していく。小生の海外赴任はこのように本当に息つく間の無い時間から始まっていったのである。
2つの問題
さて、Iさんの御遺体を日本へお送りしなければならない。どうしたらよいのだろう。まるで見当がつかない。さらに新たな問題発生か、と思ったその時、筆者が赴任前に加入をお願いした海外アシスタンス保険でこの費用のカバー、手続き等の代行をお願いできることが判ったのだった。早速保険会社と連絡を取って処理をお任せし事なきを得たのである。
まさか赴任前の準備がこんなにすぐ役に立つとは思わなかった。逆に気付いていなかったらと思うと正直ぞっとした。
後で知ったのだか、このご遺体の搬送等は費用もかなり掛かり、かつ手続きが煩雑なのだそうだ。
一つ目の問題はこうしてあっさり片付いた。
もう一つの問題は、業務上の問題であった。
何せ、到着して約3週間、アパート探し、様々な生活用品、消耗品の買い出し、携帯電話の手配、工場への出張などもあって引継は皆無に等しかった。早速月次決算で止まってしまった。エクセルのファイルを見ても式がほとんど入っておらず、数字が手入力されている。Iさんは電卓で数字を確認して一つ一つ数字を埋めていたようだ。経理の香港スタッフに手伝ってもらい、過去の資料を紐解きながら少しずつ数字を埋め、エクセルの計算式を書いていく。元データは担当スタッフに聞きながらの謎解きである。それでもなかなか数字が合わない。毎日遅くまで残業の日が続いた。しかし残業も9時過ぎには終わらせないとならない。なぜならば自宅近くのスーパー、ユニーが午後10時閉店してしまうのである。閉店間際のユニー駆け込み、お惣菜や食材を購入して夕食とするためである。
次に銀行取引の問題が出てきた。当然だが支払、給料などの小切手のサインはIさんが仕切っていたのだ。幸いNさんのサインも登録されていたので、筆者がスタッフに作成指示してチェック、それにNさんのサインをもらう事で対応し、筆者のサイン登録も並行して申請した。
これを英語もしくは北京語でやることは筆者の語学力では到底無理だった。事務所のスタッフの半数が日本語をしゃべれた上、日本語ネィティブクラスが5-6人いたのでできたことであった。この時は本当に助かったし、今でも思い出す度スタッフに感謝の念が湧き起こる。
だが、本社へ報告する数字には、まだ埋めきれない差異が残り、どうなっているのか、と心配されていた。12月になり日本から応援で子会社の経理を見ていた年配の方、Sさんが来港した。Sさんとは日本でも子会社の工場で何度もお会いしており、子会社の工場では一緒に泊まり込みで数字を調べたりしたこともあり旧知の仲であった。Sさんと月次の数字を一つ一つ調べ直していくうちやっと謎が解けた。おおよそ1週間、Sさんという助っ人に疑問点や数字の検討を繰り返すことを助けて戴いたおかげでやっと解決できたのであった。
更なる問題
暫くして、ご遺族(Iさんの御母堂様)とご兄弟から連絡が有った。Iさんの財産の相続が進まないのだそうだ。香港での実情と日本で国際弁護士事務所に頼むしかないだろうとのアドバイスを差し上げた。何せ香港の制度などの知識もなにもないに等しい筆者にできたのはその程度でしかなかった。
その後数年が経過し再度連絡が有った。ご母堂様も失意のうちに亡くなり、代襲相続した妹さんからの連絡だった。日本の国際弁護士事務所はお金ばかりかかりちっとも進まない、何か方法はないか、というものだった。香港にも慣れ、知り合いも増えていた筆者は、香港の法律事務所に所属している日本人弁護士を紹介することにした。本来、香港では相続税はないと聞いていたのだが、どうも裁判は必要のようでその判決が出るまでに異様に時間がかかるらしい。
筆者は帰任後3年ほどして退職したが発生から10年以上たっていたが解決したという話は聞いていない。 今頃どうされているのだろうか。
筆者の海外勤務はスタート早々に事件が起き大変なスタートだった。だがその所為もあって、強烈な印象が残ったのである。
つづく