敵と遭遇しないRPG
【文字数:約1,800文字】
先日に聴いたラジオで、100年続く雑誌の『週刊朝日』が5月で休刊すると知った。
別に読者というわけでもないけれど、病院の待合室などで見かけることが多い気がしたので、出版不況もここまできたかと。
私自身、マンガ雑誌や経済情報誌などを買っていた時期もあったけれど、いつしかそれも止めてしまった。
ヘッダー画像にした『BRUTUS』も『借りぐらしのアリエッティ』を新作と謳っている時点で、もはや骨董品の域に入るような気がする。
それでも本は月に2・3冊くらい買っているし、若い層でも本なら読むらしく、だからこそ雑誌の売れなさぶりが際立っているとか。
マンガ雑誌を買わなくなったのも、目当ての連載作とは別の作品が合わなくて、単行本になるのを待つようになったからだ。
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番組では様々な雑誌がデジタルに活路を求めたけれど、現在の20代は雑誌を読む習慣そのものがないという話が出て、なるほど確かにそうかもしれないと納得した。
現在はwebで連載し、原稿が溜まったら紙の本にする流れが一般的になり、そうなれば読みたい作品しか読まないわけで。
自分の好みに合わせられるのはいいとして、引き換えに新しい作品と出会う機会は減って、読んでいた作品が完結すると新作探しに難儀する。
作品の傾向からオススメされる他作品があるにせよ、必ずしも一致するわけではないし、可能ならオススメされない作品を発掘したくもあり。
とはいえ、他者のレビューから興味を持つことも多く、webの普及がレビューに触れる機会を増やしたのも事実だ。
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年始に読んだインタビュー記事にて、吉本ばななさんでも連載が書籍化しなかったものがあると話しており、作家になることを存在意義にする人は、よりいっそう苦難の道のりになる気がした。
それが載っていたのは新聞で、いわば日刊の雑誌と呼ぶのが適切だろう。
自由に使えるお金や時間が限られる中で、webのニュースで大まかな情報を知るのは可能だけれども、まったく異なる話まで興味を広げるのは難しい。
新聞や雑誌なら形になっているので読み飛ばすもよし、眺めて興味が湧いたら読めばよく、そこから新しい視点が得られたりする。
聴いたラジオ番組においても、雑多でない点の情報ばかりになることを懸念しており、それは記者やライターといった書き手にとっても良い状況とは言えない。
webは変更や消去などが容易で、速報の優位に関しては誰もが納得するように思う。
それと引き換えに確実でない情報を拡散させるリスクもあり、意図したデマの拡散はフェイクニュースと呼ばれたりする。
氾濫する情報を吟味して、ときに疑い、真相を見極めようとする裏取りは、雑多な情報に触れていたほうが養われるのではないだろうか。
たぶん多くの人が「お前は勇者で世界を救うのだ」と言われても、何の疑いもなく旅立つことはないと思う。
でも「○○は悪だ」などの陰謀論を信じた結果、議事堂の襲撃事件が起きたのは記憶に新しく、人は流されやすい生き物なのだと留意する必要がある。
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noteでもフォローしている人の記事を読むのが中心になり、SNSの欠点でもある視野の狭窄が起こるけれど、コミニティーサイトとして見るなら当然というか、むしろ推奨されているようにすら思う。
特定の話題について書き続けるのは個性となり、「○○といえばあの人」と呼ばれるまで市民権を得れば、それに類する情報が向こうからやってくるだろう。
ただ、1人の読者としては違う面に触れることで、文字や画像でしかないアカウントが1人の人間として、ぼんやり立ち現われてくる。
それはミネラルウォーターに混じった雑味かもしれないけれど、すべてのミネラル分を取り除いた純水が美味しいわけでもなく。
何かしらの意図や目的があって特定の話題に絞るのは、戦略や計算もしくは使い分けかもと思いつつ、それによって失われるものも引き受けねばならない。
もちろんnoteで何を書くかは自由だし、こうして益体のない文章を綴るのも節度を保てば許されている。
雑味を出した結果を引き受けるのは自分だし、ある人にとっては敵として認識されるかもしれないけれど、そもそも始めから眼中にない可能性もある。
とはいえ、私の場合スキを押したらキノコが出る時点で、自分をまっとうな人間だとは思っていないのだった。
なかまに なりたそうに こちらをみている! なかまにしますか?