あおから これから あすから
【文字数:約1,000文字】
※ 読んでもつまらないと思います。
今のところ死ぬまでにしたいことが3つあって、そのうちの1つは自分の納得できる作品を書くことだ。
#宇宙SFで何かできないかと試作して、資料を読むほど駄作か良くて凡作にしかならないと思うのは、多少なりとも得た経験値からくる推測だ。
間違っているかもしれないし、愚直に向き合い続けて形になった事実もある。
そんなこんなで先月あたり、自分の今後を考えて精神が不安定になり、最近になって持ち直してきた。
いつか家を買うような目標と同じく、実現の可能性が低くとも夢はあるとして、いつか本を出すのだと言って応援されたり、笑われたりしてきた。
しかし書くことを続けるほどに自分の至らなさを痛感しながら、他に道はないのだと身を捧げ、家を潰すほどのめり込むこともできない。
生きているだけで素晴らしい、と幸せの閾値を下げていくと息はしやすく、抱えている爆弾も忘れられる。
だけど思考から追い出しているだけで消えるわけではないから、その代償に皮膚の感受性が死んでいく。
過敏さを取り払って鈍感になれば、現状が先の見えない滑り台であることを忘れ、ただただ日々の労働による疲れを癒すだけで幸せになれる。
それはそれで満足かもしれないという充足に反比例して、自分への期待値は下降して見えなくなる。
失われるものに対する補填や代替といった、犠牲を強いる悪行に他の誰かを巻き込みたくはないし、きっと向こうから願い下げだろう。
ならば取りうる道は決まってくる。
受け身でありつつ望むところがあるのは救いであり、同時に後ろへ伸びる影には絶望が泡立ち、それらのはじける悲鳴を背にしている。
自分の中には光がない。
あるいは別のもので隠れている。
noteでAと名付けた人間について、より深く手を突っ込めば何かを得られるかもしれない。
その一方で、火傷をすることのない安全な方法がないかと、相反する意思の振り子が喉笛を狙う。
だから道を外れ、結局は戻ってきた。
私の遠回りは意味のない、無駄な行いだったのだろうか。
仮定の結論を考えることこそ無意味で、これは足踏みのようなものだ。
逃げることもせず地面を踏み固める姿は、まるで悔しがる道化のようで滑稽に違いない。
1つだけ分かっているのは、死ぬまでにしたいことが4つに増えた事実だ。
正しくは忘れていた。
そのほうがたぶん生きやすくて、思い出したくなかったのかもしれない。