湯浅政明監督とヒーローの誕生①:『きみと、波にのれたら』中編
後半は、『きみと、波にのれたら』のメインテーマである「ヒーロー」について、湯浅監督の過去作を踏まえながら分析します。長くなってしまったので中後編の二つに分けました。
象徴としてのキャラクター
湯浅監督のアニメでまずもっとも目を引くのは、独特なパースと色使いでしょう。陰影をつけないフラットでミニマルなデザインに、現実とは異なる不自然な彩色を施し、物理的な価値観を無視して縦横無尽にパースを変えるため、監督の作るアニメは非常に特徴的で、ある種病的でもあります。
アニメーションの本質は強調と省略です。アニメでは、監督がデザインした要素以外存在することができません。監督自身が「シンプルで何も足さない」デフォルメをテーマとして持っているとおり、湯浅監督は特にこの2つが顕著です。
陰影やディティールを大胆に省略した映像は、視聴者の目線をアニメーションの「動き」自体に集中します。さらに強調された独特なパースと彩色によって、シーンの意味や、「動き」自体が持つ意図が強調されるのです。
また、監督は、Flashアニメーションを使う、商業アニメの中では数少ない監督の1人です。フラットなアニメーションはFlashと手描きを両立させるための措置でもあるでしょう。Flashは手描きアニメと異なり、絵をプログラミングによって動かします。また、手描きと異なり、拡大縮小しても線がブレません。したがって、動きが滑らかで、ダイナミックにカメラを動かすことができます。一方で手描きのように中割りを自在に決められるわけではないので、日常描写のような繊細な場面には適しません。
おそらく今までの湯浅作品で一番Flashの良さが出ていたのは『ピンポン』でしょう。カメラをボールに合わせて自在に動かしたり、物理法則を無視してパースをぐらつかせたりして、小さな卓球台での対戦がダイナミックに演出されています。
ただ、湯浅監督の特徴がFlashアニメーションは湯浅監督の特徴の1つですが、彼の作風がFlashに依っているわけではありません。
『四畳半神話大系』と『夜は短し歩けよ乙女』は、どちらも森見登美彦原作で湯浅監督がアニメ化した作品であり、同じ世界観を共有しています。しかし、『四畳半』は実写映像と作画、『夜は短し』はFlashと作画を用いています。前者は原作のモノローグをほとんどそのままアニメでも語らせていて、「私」の学生生活を淡々と物語る作品であるため、ダイナミックな演出が得意なFlashはそぐわないでしょう。また実際に存在する場所が多数背景に登場するので、実写映像との相性も良いです。
一方で、『夜は短し』は一人のキャラクターの中で完結する話ではなく、様々な人が行き交い出会うことで物語が進行していきます。『四畳半』では心理描写は「わたし」の一人語りで済ませていましたが、『夜は短し』では、視点が行き来するため、心理描写をFlashを用いて映像で表現しています。
彼が天才と呼ばれる理由は、サイケデリックで他に類を見ない映像表現からではなく、作品に合わせて数多くの技術や表現を駆使できるからだと私は考えます。
先述の『ピンポン』でも、Flashの間に手描きによる密度の濃い決めカットを入れることで、メリハリのあるバトルシーンが演出されています。
あらゆる要素を操作することで、無限の表現ができるアニメーションにおいて、この才覚は唯一無二の映像表現を生み出します。
しかしそれだけでなく、批評家の土居伸彰氏は、このような装飾を捨象したアニメーションによって、キャラクターがより共感されやすくなっていると述べています。
湯浅作品のグラフィックは、本書が取り上げてきた空洞のような抽象的なイメージに寄っている。キャラクターたちはグラフィック的な存在であることを隠そうとしないフラットなデザインで、その色自体もナチュラルなものではなく、何かしらの意味を帯びたような「不自然な」ものである。ディティールを加えてキャラクターの現実味を高めていくのではなく、むしろそれとは逆に、キャラクターを簡素化しグラフィックへと近づけていく方法論が採用されているのだ。
それがもたらす可能性とは、本書でも繰り返し語られているように、イメージが多義的・流動的になっていくというものである。空洞化したイメージは自分自身へと自閉させるか、もしくは自分とは少し異なる存在を次々に自らの懐へとおさめていく雑食的な「私たち」を作り上げるが、湯浅監督はその後者の好例である。(1)
例えば、『夜明け告げるルーのうた』の主人公「カイ」は、東京から舞台「日無町」に引越してきた少年で、DTMが趣味で、感情を表に出さず、周囲とうまく溶け込めていません。外見的な特徴は黒髪で色白くらいしか描かれていませんが、むしろ外見を断定しないことによって、似た内面を持つ人や、似た境遇にいる人から広く共感してもらえるようになるのです。1人の人間の外見や振る舞いを複雑に多面的に描ける実写と異なり、アニメでは人間を形作る特徴の一部を象徴化することで、世界をとらえていきます。湯浅監督のアニメーションは、キャラクターが個人として生きているよりも、この象徴性が強いということでしょう。
純粋な悪のいない物語
上述のような他に類を見ない映像表現から、湯浅監督の作る作品は毎回国内外のさまざまな賞(しかもだいたいグランプリ)を受賞している一方で、細田守監督などと比べると大衆での知名度はあまり高くありません。しかし、当人はつねに多くの人に見てもらえる作品制作を心がけていると、インタビューではよく答えています。
確かに、物語を噛み砕くと、社会に対して未熟な主人公が、自分とは異なる何かと出会い、そのやり取りの中で成長し、最終的に社会(あるいは社会の中に生きる自分)を受け入れるという、極めて一般的なアーキタイプを多用していることがわかります。また、原作モノでもオリジナルでも、現実世界の流行や技術、現実にいる人々を意識して作られており、大衆向けに制作しているという言葉は嘘ではないようです。
ほかの傾向として、登場人物それぞれの背景を丁寧に描き、シンプルな画面にそのような複雑なキャラクターが絡み合うことで物語が展開していくことが多くあります。
では、これらの構造を通してどのようなメッセージを伝えてきたのか、次節からは作品ごとに見ていくことにします。
可能性を追い求めること:『マインド・ゲーム』『四畳半神話大系』
最初は、初の劇場監督作品『マインド・ゲーム』です。伝説の作品と言われるこの作品が提示したのは、可能性の追求でした。
主人公の「西」は、みょんに思いを告げることもせず遊んで暮らしているだけでしたが、ある日借金取りのヤクザに尻を撃ち抜かれて死んでしまいます。あまりに無残な死に方に、もう一度人生をやり直すと決意した西は、神様に頼み込み、ヤクザが来る寸前に生き返ります。一時は車を奪ってヤクザから逃げられたものの、道中クジラに食われ、その中に閉じ込められてしまいました。
鯨の中には先住民が1人いて、クジラが丸呑みした食物や日用品を使って生活していました。鯨の中は、彼岸の比喩です。クジラが定期的に呑み込む食べ物と海水で生存し続けられ、外界から襲われることもありません。しかし、老体のクジラが死んでしまえば、一緒に死ぬことは確定しています。あらゆる苦痛が存在しない代わりに、あらゆる救いもまた存在しない世界です。在るのは、緩やかな死だけです。
このまま鯨の中で安全なまま一生を終えるか、それともまた追い回されることを覚悟のうえで、助かるかどうかもわからないまま、外を目指すのか。
神様によって生き返り、能動的に生きることで人生が変わることを知っていた西は、可能性を追い求めることを選択します。
西「出よう。ここにいても沈むんや」
みょん「どうやって?」
西「もちろんあのボートを漕いで」
やん「外に出たら逮捕されるかも」
西「ああ」
みょん「またヤクザに追いかけられるんよ」
西「ああ喜んで! 外に出たいんや! 外にはいろんな世界があって、いっぱいいろんな人らが自分らの思い思いの時間を生きてて、信じられへんぐらい良え奴とか悪いやつとか、自分と全く違う人間がごちゃまんとして世界を作っとんねや! 成功するとか野垂れ死ぬとかどっちが上とか下とかそんなんは問題じゃなくて、俺、そん中にいたいんや!
俺わかったんや。コネも金も才能がなくても、カッコ悪くてもみじめでも、俺は自分の手で足で考えて動いて自分の人生を手に入れたいんや!
ここでなんもせんと死んでいく? それとも自分の手でやってみる? 俺たちの力で漕いでみるかぁ!?」
西たちはクジラの口から決死の脱出を図ります。このシーンはアニメならではの誇張表現と演出が冴える最高の映像です。キャラクターたちの能動的な意識が絶頂を迎えたとき、彼らはクジラから見事に脱出をとげます。そして、無限に広がる世界、そして自分に起こるかもしれない(起こったかもしれない)あらゆる出来事に、西は涙します。
そして、ヤクザから逃げきれた世界線を示し、西、みょん、やん、じーさんの一生を圧倒的なテンポで描いて、物語は終わります。最後に示される「This story has never ended.」は、世界には無限の可能性が存在するため、西たちの人生もまた無限通りに存在することを表しています。
もう1つのタイムリープもの、『四畳半神話大系』もまた、怠惰に生きる主人公が、閉鎖空間に閉じ込められます。
ある日起きると無限の「四畳半」から抜け出せなくなった「わたし」の置かれた環境は、『マインド・ゲーム』のクジラの中と似ています。隣の四畳半に移動すれば食べ物と飲み物には困らず、外界から災厄が襲ってくることもありません。しかし、「わたし」は無限に続く四畳半が「平行世界のわたしの部屋」であることに気付き、どの平行世界でも傍らに小津がいたことを知り、「わたし」は彼が唯一の親友であったことを思い出します。そして、「どす黒い糸」を辿り、明石さんに思いを伝えると決意したとき、「わたし」は四畳半ループから抜け出すことができました。
ここで抜け出すファクターになっているのも、やはり他人に能動的にかかわろうとする意志、具体的には告白する意志です。あるいは、自分の力で「波にのる」までの作品とも言えるかもしれません。
余談ですが、『四畳半』『夜は短し』のの2作品は、主人公に具体的な名前がありません。この点もアニメの抽象性と相性がよく、実写映像の中に手描きのキャラクターが行動することで、匿名であることが強調されている点もおもしろい演出です。
ヒーローは誰のために卓球をするのか?:『ピンポン THE ANIMATION』
湯浅監督とヒーローを語るうえで欠かせないのは2つのヒーロー漫画、松本大洋作『ピンポン』と、永井豪作『デビルマン』です。これらの作品に共通するのは、主人公が強いヒーローであることです。
どちらも昭和の作品であるため、アニメ化にあたって現代の視聴者に合わせるために改編をしています。注目すべきは、学校の焼却炉がなくなったり、不良少年がラッパーに代わったりするといった、現代文化との齟齬を解消するだけでなく、キャラクターや物語のメッセージも大きく変更している点です。したがって、これらの変更点から、湯浅監督のヒーロー観をうかがえるのではないかと考えます。
原作の『ピンポン』は、天才肌で練習をさぼりがちだった「ペコ」が、ライバルとも思っていなかった旧友の「アクマ」に負けて諭され、もう一度親友の「スマイル」に笑顔を取り戻すために戦うという、「ペコ」に一貫した物語になっています。一方で、アニメでは原作の物語を解体して、新しいエピソードを加えて組み直しています。トレーラーにもあるように、アニメは「五人の青春の物語」なのです。
中国での強化選手から脱落し、日本にコーチとしてやってきた「チャイナ」は最初日本を見下し、不真面目だった「ペコ」を0ゲームで倒したものの、「ドラゴン」に完敗し、その後感覚を取り戻した「ペコ」に負けるという、2人の強さを強調する役割しか持っていませんでした。しかしアニメでは、彼の抱える事情や、高校でのエピソードが加えられます。
コーチ「卓球じゃないよ。人生の話をしている。そしてこれはコーチではなく、君をよく知る友人としての意見さ」
卓球だけを頼りに親元を離れ、強化選手として生きてきたにもかかわらず、落ちぶれて日本に送られ、さらには日本でも「ドラゴン」に敗れた彼は、一度は絶望します。しかし、見下していたチームメイトと打ち解け、コーチとして優しく指導するようになる姿は、「ドラゴン」や「スマイル」の高校が崩壊していく中で非常に対照的です。
また、高校最強の選手「ドラゴン」は、父親を早くになくし、勝利至上主義の祖父、風間竜のもとで、「人に弱みを見せるな」と言われて育ちます。そこに、アニメではユース五輪の覇者となり、百合枝という恋人の存在、父親とのエピソードが加わったことで、彼の背負うものがより強調されています。
ドラゴンの父は、心優しい人でしたが、家業の卓球用具メーカーで失敗し、早くに亡くなってしまいます。結果、親族の中で居場所を失ったドラゴンと母は貧しくなり、ドラゴンンは母親が高価な食べ物を払えないことを知っていたため「うどんが食べたい」と言うなど、しだいに他人のために生きるようになっていきます。
しかし、父親から受け聞いた「カサブランカ」の話を百合枝にそのまま言っているように、ドラゴンは本当は父を愛しており、父から習った卓球を愛していました。一方で、ドラゴンの家族は、ドラゴンが勝ち続けなければ親族の中で居場所を失ってしまいます。家族を背負い、常勝軍団の海王高校を背負い、五輪チャンプになってからは卓球用具メーカーをも背負うようになり、彼は自分のために卓球をすることができなくなっていきました。
本当は自分をさらけ出したいと思っているが、自分が背負うもののために、自分のために卓球を楽しむことができない、小心な本性を恋人の前ですら明かせず、潰れそうな心を必死にトイレの個室で抑えて、皆が望む姿を演じることしかできない、悲劇の存在としての側面が強くなっています。
ドラゴン「ヒーローなどいない。あるのは現実と・・・それに適合できる者だけが勝者となる事実だけだ」
百合枝「竜ちゃんくらい、ずっと昔からヒーローを待ってる人はいないから。いつかきっと、竜ちゃんの前にヒーローが現れる」
風間卓「自分の勝利は宿命でなければならないと、竜一は信じている。それが必然でなければならないと。たぶん奴にとって、卓球は苦痛なだけなのだろう。そういう強さもある。どがん……」
ドラゴン「ヒーローなんだろう? 飛ぶのだろうが。皆を救うのだろうがッ!」
最後の「皆を救うのだろうが」というセリフは、アニメで新しく加えられたものです。人は飛べない、一歩一歩登っていくしかない、落ちたら二度と闇から抜け出せない、だからこそ、彼は勝利に固執します。しかし本当は、常識を無視して、この雁字搦めのしがらみを打破してくれるような、理屈を超えて、空高く飛ぶような、闇を吹っ飛ばして、自分を救ってくれるような、ヒーローを誰よりも心待ちにしているのです。
もちろん、スマイルもまた、ヒーローを心待ちにしている一人です。アニメではロボットの比喩がさまざまにちりばめられており、動きに駆動音がつく場面すらあります。これによって、最終話のタイトル、血のメタファーがより象徴的になります。
スマイル「先生はヒーローを信じます?」
丈「ヒーロー?」
スマイル「ピンチのときに必ず現れて、僕がどれだけ深くに閉じ込められてても、助けにきてくれるヒーローです。」
丈「君は信じるのかMr.ツキモト。そのヒーローとかいうのを。」
スマイル「はい。もうずっと長いこと、彼が来るのを待ってます。そして今日、彼はかえってくる」
スマイル「ここは静かで安全だ
とても落ち着く
ロボットみたいに静かにしてる
誰か来る
大丈夫、ぼくはここで平気なんだ
ここにいればなにもされない
怒らないし、笑わない
生きもしない、ただいるだけ
外に出たら、また、またーー」
???「ちがうぜ、スマイル」
???「知ってるか、スマイル、血って鉄の味がすんだぜ?」
そして、チャイナのもとに、ドラゴンのもとに、スマイルのもとに、「ヒーロー」がやってくるのです。
ペコ「笑わないからスマイルじゃなくて、卓球やってるとき、笑ってたからスマイルって呼んだんだ。あいつはもう、ずっと長いこと俺を待ってる。ずっと長いこと俺を信じてる。」
オババ「ペコ。スマイルのために、打つのかい?」
ペコ「違ぇよオババ。オイラがヒーローだからっしょ。そこんとこヨロシク!」
ヒーローは誰のために戦うのか。「無論、チームのためだ」と答えた「ドラゴン」とは対照的に、「ペコ」は「オイラがヒーローだから」と答えます。
ヒーローとは他人を助ける存在ですが、それは他人のためではなく、自分がヒーローだからです。この回答には、他人のためだけでなく、自分のためだけでなく、誰かのために行動することが結果的に自分のためになるというヒーローの本質が含まれています。スマイルを救えるのは自分しかいない。「スマイル」を助けられないなら、自分ではなくなってしまうと「ペコ」は考えているのです。
いよいよ相対したドラゴン戦、ヒーローなどいないと叫ぶドラゴンに対して、「ペコ」はこう言います。
ペコ「知ってるかドラゴン、卓球ってのはな、めたくそ楽しいんだぜぇッ!?」
卓球を心の底から楽しみながら、急成長を遂げる「ペコ」に対し、「ドラゴン」も目の前の試合に夢中になっていきます。ギャラリーが視界から消えた二人だけの極限空間のなかで、「ドラゴン」は、最後に「人は飛べるのだ」と、卓球の楽しさを思い出すことができました。
チャイナ「ホシノのプレイは型にはまってないよ。卓球が好きで好きで仕方ないといった感じさ
そういう相手のプレーできるというのは、少なくとも俺は……」
また、もう一度中国に戻るために、「ドラゴン」に勝ちに来た「チャイナ」も、予選二回戦で「ペコ」に敗れてしまい、結果としては散々でしたが、最後の「ペコ」との試合では絶望することはありませんでした。彼はその後も卓球を辞めず、日本に帰化してプロになり、最後まで卓球というスポーツを愛し続けていました。
そして、ペコに自分の青春と葛藤を託したアクマもまた、ある意味ではペコの再起と躍動によって救われたのでしょう。結果的に、ペコはアニメでフォーカスされた全員を救う存在になったのです。
ドラゴン戦で覚醒して以降の「ペコ」は、まさに作品でも言われていたように、常識と理屈が効かない、完全無欠のヒーローです。
しかし、同時に、彼がそこまで成長できたのは、4人がいたからこそであることもまた事実です。「チャイナ」に気づかされて、「アクマ」に諭されて、「ドラゴン」の力を得て、「スマイル」を見て決意したからこそ、彼はヒーローになることができました。それは、対戦相手の技術を取得して強くなっていく「ペコ」のプレースタイルともリンクします。
アニメ版『ピンポン』において特徴的なのは、悪役が一人も出てこず、誰も不幸にならなかったことです。卓球に打ち込んでいる全員に、それぞれに卓球に真剣に取り組んだ人生があることが表現されています。「ドラゴン」を追い込んだ祖父風間竜すら、「勝たせてあげることが幸せにつながる」という信念のもとにドラゴンを指導していたことが示されます。そして、因縁あるかつてのライバル「ジョー」から「卓球やろうぜ」と言われ、救われる。今作において、ヒーローは誰か一人を救うからヒーローなのではなく、戦った相手全員を救うからヒーローなのです。
そして、原作をそのように解題した湯浅監督もまた、「ペコ」のように、誰が一人ではなく、全員を救うヒーローを志向しているのでしょう。原作では注目されなかったキャラクターにもフォーカスを当てて、丁寧に描いたのも、、全員を救うことを目指したからです。卓球によって誰かが不幸になる結末ではなく、卓球が全員にとって「楽しいもの」になる物語、スポーツの本質を描きたかったのだと私は考えます。
このような明確な悪役を描かない現代化は、もう1つの作品『DEVILMAN crybaby』にも受け継がれます。
ーー後編は、『DEVILMAN crybaby』をみた後に、『カイバ』『ルーのうた』というオリジナル作品を踏まえて、いよいよ今回の『きみと、波にのれたら』に着地したいと思います。
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