タイトルなし

『海獣の子供』前編:生命の秘密と、琉花の成長について

はじめに

どうもです。

noteはじめてみました。趣味について書いていけたらと思います。

初回は最近見た映画から、『海獣の子供』についてです。

本当に、2019年は2016年に勝るとも劣らない大豊作じゃないですか? リアルタイムで立ち会えたことがあまりに幸福です。

『海獣の子供』、田中栄子Pが言っている通り、こんなすごい傑作は二度と見れない。映像の中に取り込まれて心の奥深くに刻み付けられたような、壮大で神秘的で恐ろしくて美しい作品でした。

誰も見ることのできない、理解することができない何かを教えられながらも、生命の神秘、無限と虚無や、あまりに大きくて実態を掴み切れない、わからないものを恐れていたこと、それでも好奇心から手をのばしたこと、そのことを今でも後悔していないこと。

幼いころに、(あるいは無意識のうちに今も)どこかで感じたことがあるような、馴染みのあるような、生命に触れ、言葉にならない何かを学ぶ、そんな不思議な追体験でした。

振り返らなくても、今でもそばにあるはずさ

正直こんな傑作に対して僕が今更何が言えるのかと思うところもありますが。きっと僕がこの映画を見て理解できたことなんて、ほんの一部ですらないのですが。それでも、琉花も最初は何もわからなかったはずです。僕らと同じように。それでも琉花は「見たい」と言って目を開く決意をしました。きっと、わからなくても寄り添おうと、理解できなくても触れようとすることがきっと大事なのだと思います。

長くなってしまったので、前後編にわけました。前編は主にストーリーについて、後編は映像についてみていこうと思います(ここから先はネタバレを含みます)。

映像化不可能と言われた原作、はたして映画化は成功か?


では、この作品のストーリーから考えていこうと思います。

まず頭にあがるのは、原作から大きくストーリーを圧縮したことです。原作版『海獣の子供』の物語は、非常に複雑で、当然劇場映画ですべてを描くことはできません。TVアニメの感覚で言えば、20分(1話)で描けるのはどんなに多くても150ページが限度です。300ページ超の単行本5巻分にわたる、複層的なストーリーすべてを表現することは到底できません。

初めに述べておくと、映像化不可能とも称されていた原作の物語を一貫した劇場映画にまとめられた点で、私は非常に潔い決断だったと考えています。

原作では、たとえば、「海に纏わる第Xの証言」という形で、海の秘密についての「ヒント」が、はるか昔から「神話」や「民俗信仰」として断片的に受け継がれてきたことを示しています。

こういったすべての神話は共通していて同じモチーフを描いている、みたいなロマン、僕は堪らなく好きで、原作で一番好きなところの1つです。

また、ジムやデデ、アングラードが空と海に辿り着くまでの過去を明らかにしていたり、6年前の南極調査鯨の「ソング」の秘密が明らかになったりと、それぞれの登場人物の立場がより詳細に描かれています。このように、「誕生祭」に至るまでの経緯を時間的にも空間的にも広く描いています。

まあとりあえず読めばいいと思う

そこで映画では、物語を「現在」の琉花が体験する部分に絞ってこのような過去の物語を取り除き、重要な部分を琉花の物語に挿入することで、短い時間でも一貫した物語に省略しています。

それが端的に現れた映像表現が、フォローやフォローPANの多さです。映画が始まって最初に琉花が坂を駆け降りるシーンや、海辺を歩くシーンはこの手法を使っているんですが、全身のフォローってめちゃくちゃ作画が重くなる。人間に合わせて背景も動かさなければいけないので、動かす枚数が何倍にもなりますし、実写ではないのでそれらの物理的な整合性も取らなければなりません。

まああの鯨を見た後では何が来ても驚きませんが(驚いた)、そんなコストをかけてでも、カメラが常に琉花を中心に捉えることで、この映画は琉花の視点から描かれることを強調しているのだと思います。

「琉花」の物語のみに注目することで捨象されたもう1つの要素が、科学です。原作では、誕生祭を巡って多くの大人の利権が複雑に絡み合うさまにも触れています。しかし今作ではそれらを切り捨てることで、ジュブナイルに入れにくい人間同士のどろどろした争いやグロテスクな描写を描く必要がなくなりました。結果的にお父さんも映画では単なるめっちゃいい人です(原作では視野の狭い大人の象徴として描かれています)。

その中でも1つだけ、グロテスクだなと思ったシーンがあって、それが食事のシーンです。エビを食べるシーンが顕著ですが、このアニメの描写力がえげつないことも相まって、「美味しそう」という感想以上に「うぇっ」ってなる反応のほうが僕は大きかったです。食事は直接生殺に関わる部分ですから、命を感じられる描写にしたのだと思います(作監いわく美味しそういしそうらしい。ごめん)。

他方で、映画版で新しく導入されたものも、大きく2つあります。その1つが子守歌です。

その歌は、琉花が幼いころ母から聞いた歌として登場します。しかし、原作には、「星の星々の海は産み親、人は乳房、天は遊び場」という鯨のソング(を人々が聞いた歌)以外には登場しません。

これもまた、琉花の視点に物語の中心を据える翻案の一部で、琉花が秘密を自分事として消化するために用いられています。そして、子守歌もまた1つの寓話であり、神話であり、母から子へと世代を超えて伝えられてきた物語です。原作で述べられているように、琉花の母、加奈子は海女の家系であり、人間の母体のような「世界地図」(鯨=ビーナスの腹に描かれているもの)を子供のころに見ています。そのような環境で育ったわけですから、海の子守歌を受け継いでいてもおかしくない。そして、最後には生まれてくる妹のへその緒を切って、歌を思い出す。この子守歌と言うアイデアは、まさにたった1つの完璧なソリューションだと僕は思います。

もう1つはデデが船で弾いていた楽器(パンフレットによればマウスハープというそうな)。「言葉から零れ落ちた風の記憶と謡う」楽器だそうですが、この独特な音が、映画終盤ではずっとバックグラウンドで鳴り続けていたのが印象的でした。

琉花が誕生祭を目の当たりにするときにも微かに響いていて、琉花が形而上の概念ではなく、過去に確かに存在した「人やものや事の幽霊」、現在に存在する自分と海、そして生まれ来る未来の生命という実存に触れていたことが示されています。この音をオノマトペに表すのは難しいでしょうから 、音を(無駄な音を捨象できるため時には実写以上に)表現できるアニメならではの演出です。映画を見てから数年たっても、身体のどこかに残っているような不思議な音でした。(注1)


ジムとアングラードの挫折

ただ、大人を描かなくなったことで、現代科学が生命の神秘に至ろうとする挑戦も同時に捨てられてしまったのは少し残念です。科学によって、世界を説明する根拠がもう1つ増えるため、単なる神秘思想に帰結しないこともこの作品の魅力でした。

この作品は世界の体系に対して人間の能力がちっぽけであることもメッセージの1つなので、科学(人間が世界を解明するという近代的価値観)の限界と敗北、そして、自然に肌で振れている民俗(科学ではもっとも忌避すべき「似ているから相関している」という考え方)の再評価は重要な側面です。

人間中心主義を否定するために、クジラやナンキョクオキアミを例示して、人間がもっとも繁栄した種族ではないことを示していたりと、自然の広大さと、人間の矮小さという両方向から説得していたので、説得力がありました。自分たちの届かないところで壮大な何かが動いている恐ろしさがより鮮明に伝わってきて、僕は鳥肌が止まらなくなります。

しかし、それらも文字を使えず、一方的に情報を与える映像メディアでは説明的になってしまったでしょうから、その魅力を切り捨てた思い切りの良さは評価すべき点だと思います。琉花に感情移入しやすいため、人間の能力(言葉、科学)が及ばない世界の美しさと恐ろしさ、そしてそれらに触れることは十分に伝わってきたので、そのバランスは非常に卓越していたのでしょう。

科学を巡る対比で印象的なのが、ジムとアングラード、そしてデデの関係です。とくに好きなのが、ジムとアングラードの会話です。この2人は、どちらも空と海を大切に考え、海の秘密に迫ろうと考えている点では一致しています。しかし、性質がまったく異なるために、常に互いの思考が重なり合わない。その食い違いにとても胸が締め付けられます。

自然と同じ目線に立つには、理性ではなく感性を主体に考えなければいけません。しかし、ジムは根っからの海洋科学者であって、デデが諭したように、正論しか考えられない人です。海に憧れ、身体に訪れた島々の入れ墨を入れて、身体を近づけようとも、彼は決して「選ばれる」ことはないでしょう。空はジムの本質的に異なる性質を評価して近づいたわけですが、ジム本人の意思は空とはまったく異なっています。

空は死を定義せず、自分たちの生命は身体の海によって断絶されることはないと考えている。一方で、ジムは、「彼らの素晴らしい秘密を解明して、世界中の人に共有したかった」「彼らを守りたかったんだ」と告白しています。彼は海ではなく、純粋に僕たちと同じ陸の生物です。

一方の弟子、アングラードは空と海により近い存在です。「陸に長居すると考えがまとまらない」「子供のころは他人の言葉がノイズにしか聞こえなかった」と言っているように、琉花と同じ性質を備えています。しかし、彼は選ばれなかった。長い間空と海と暮らしたにもかかわらず、空から隕石を渡されることはありませんでした。それは、偶然(隕石が落ちてくるタイミングが遅かったから)なのか、必然(琉花とは違い身体に子宮を持たないから(注2))なのかはわかりませんが、彼もまた特等席に立つことを切望していながら、叶わなかった人です。

ハナミズキ咲く砂浜で、ジムが言った「間に合わなかったのだろうか?」というセリフ、そしてその後の沈黙(原作でも大きなコマで表されています)には、言いようもない強い思いが込められているのでしょう。

琉花は本当に「成長」したのか?


このように、映画版では複雑なストーリーを琉花の物語のみに単純化することで短くまとめることを達成しています。

それでも今作の感想として多く見受けられるのは、話が難しいという意見です。私も最初に原作を読んでいなければしっかり理解できなかったと思います。そして制作者の側も、理解してもらおうと思って作っていないのでしょう。原作も5巻の大部分をかけて誕生祭を描いていますが、わずかにモノローグがあるだけでほとんどセリフがありません。

「考えるより感じろ」という感想をよく見受けましたが、作品を通して言われているように、そもそも言葉で説明できるようなものではないのでしょう。誕生祭とは、あの世からこの世に新しい生命を迎える祭で、おそらく生まれるものは恒星(=人間と同じ要素でできた生命と同じもの)(映画では星雲や原始星?のようなCGが挟まれていました)でしょう。

「僕のかわりに彼らが見たのは、海の中の世界ではなく、あの世の光景だったのかもしれない。天国とか地獄とか。それともこれから生まれてくるものたちの世界。幽霊は死んでしまったものたちではなく、生まれる前のものたち」というアングラードの言葉をはじめとして、ヒントはちりばめられていますが、これもはっきり明言されていません。


評論家の添野さんは「海にある惑星の役割は生命の`出産‘であり、産みから来た子供はそのシステムの触媒である」と解いています。

さて、僕が映画館で聞いた感想の中に、結局琉花が何を起点に成長したのかが分からないというものがありました。これまで見てきたように、原作では極めて長く広いスパンで誕生祭を描いています。また、原作では琉花が登場する前に、ある一人のストーリーテラーが「琉花の物語」を物語る形で進行されています。その中で琉花はたまたま空と海に選ばれたゲストでしかなく、「鯨に飲まれて隕石を指定された場所に運ぶ」役割しか持たない、いわば代弁者でしかありません。したがって、極論琉花の成長は物語の軸と関係がないわけです。しかし、映画は琉花のジュブナイルストーリーを中心に描いているので、琉花が夏休みに出会った人や事から何を学んだのかを明確に提示しなければならないように思えます。(注3)

改めて確認すると、地球中の海洋生物が、海のすべてが、好奇心に身を任せて自分たちが生存できない海域に集まってきたように、琉花もまた「見たい!」と好奇心によって祭りのすべてを間近で見ることを選択しました。そして、光になって消えていく海に対して、「私も、ずっと、ずっと!」と、言葉にならない何かを表現しようとするも、海は星になって消えてしまいます。

もしかしたら、ずっと、の先は言葉にしなかった「約束」だったのかもしれません。しかし、次のシーンでは、琉花はデデに自分はただもう一度海に会いたかっただけなのだと伝えていますから、「私もずっと一緒にいたい」というような告白と解釈するのが最も論理的でしょう。

そして、自分が海の最後を見届けたものの、ただ眺めることしかできなかった(本来そういう役回りでしかなかったことは当然わかっていません)ことを恥じる琉花に、デデは

「あんたでいいんだよ。信じておやり。空と、海と、自分自身を」

と諭し、琉花は3人の出会いと運命を受け入れます。帰り道、坂道から落ちてくるボールを拾い、落とし主の女子学生にボールを「飛んで」投げ返してひとまず終幕し、EDが流れ出します。

しかし、前述のような感想になってしまう原因は、この最後のカットにあると僕は思います。というのも、この物語を通して、琉花は果たしてハンドボールチームで仲良くやっていけるようになったでしょうか? 僕はたぶん復帰明けの練習でまたやらかすと思います。

命の秘密を知ったから、生命の神秘に感化されて、他人を想う大切さを知った、という解釈も可能ですし、おそらく制作側の意図としても、そのような成長物語にしたいのだと思います。しかし僕はこの体験を通して社交的になる、という解釈には若干無理があるように思います。

 しかしそれは、琉花が成長していないということではありません。社会に上手く溶け込めることだけが「成長」ではないように、琉花は、この夏休みに学んだことは、社会での生き方、誰かと仲良くする方法といったものではないのではないでしょうか。母親のへその緒を切る最後のシーンに象徴されるように、琉花がこの夏に体験したのは、命の秘密そのものです。そしてその体験を通して、彼女は「約束」をしました。その相手が空なのか海なのかそれとも別の何かなのかはわかりませんが、その「約束」を胸に秘めて彼女は生きていくのです。

ジュブナイルストーリーの帰結として「少女(少年)が1つ新しいことを知って大人になる」というのは王道ルートです。ただ、たとえば『バケモノの子』であれば、九太が成長して最終的に周りをより想えるようになるのはわかります。一方で、『ペンギン・ハイウェイ』のアオヤマくんの性格がお姉さんとの日々を通して彼自身が持っていた本質がより社会的な方向に変わったかと言えば違うでしょう。それでも彼が不思議な体験を通して新しい感覚や世界を知って成長したことは変わりません。

僕たちは琉花の視点から、琉花とともに物語を眺めてきました。そうであるならば、琉花が体験したことが現在の彼女自身の身に余るような体験だったことは確かです。

たとえば「一番大切な約束は言葉では交わさない」というこの物語がもっとも集約されたメッセージを、琉花ではなくデデの口から語ってもらうことで、その約束によって琉花が「成長」し、「言葉にならない何か」を学んだと示すこともできたのではないでしょうか。

今は空と海との別離で心がいっぱいで、祭りや生命の秘密には圧倒されているはずです。したがって自分で約束の存在に気づくのは聞き分けが良すぎると僕は思います。他方で、海との出会いを肯定するだけで物語を終えてしまうと、命の秘密を体感する流れが中軸からそれてしまうから不十分です。

琉花は僕たちと同じ体験をしてきて、これからさまざまな体験をすることで成長していく何者でもない存在ですから、琉花が映画のメッセージに自発的に気づく必要はありません。海の何でも屋であって、自然のサイドに立つ存在であり、昔同じような体験をした先輩でもあるデデの口から伝えたほうが、メッセージの信憑性も高まるのではないでしょうか。

ただ、この辺は私の個人的な感覚なので、違うとらえ方をした人もいると思います。違う感想をお持ちの方は、ぜひ意見を聞かせてください。

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※記事内の画像はすべてトレーラーとMVからのキャプチャ


注1:漫画のオノマトペ問題は、『それでも町は廻っている』の石黒正数さんが語っています。

注2:ビーナスに呑まれた琉花が目覚めた回のタイトルは「身籠る」です。また、「女の身体はあの世からこの世に生命を引っ張ってくる扉を持つ」とも述べられています。時間がなくて参照できていませんが、各回のタイトルを分析するとまた違ったことがわかるかもしれません。

注3:パンフレットに載っていたパンスペルミア仮説は疑問が残るかもしれません。人間は宇宙の一部であり内臓だ、地球は子宮で星(銀河、生命?)が生まれるとは述べていますが、生命が宇宙から来た、とは明言されていなかったように思います。




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