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湯浅政明監督とヒーローの誕生②:『きみと、波にのれたら』後編

「泣き虫」のヒーローから託されたバトン:『DEVILMAN -crybaby-』

2017年にNetflixでアニメ化された『DEVILMAN -crybaby-』は、ピンポン以上にラディカルな変更が加えられており、物語の着地点も大きく異なります。

時代設定を現在に設定するにあたって、サバトに同性愛者を自然に配置したり、BEAMSやプロのラッパーに依頼したりした点が評価されました(しかも物語に密接に関わります)が、なによりも大きな変更は、人間と悪魔(デーモン)との差異が少ないことです。 

そして人間と悪魔の戦争を描くにも拘わらず、『ピンポン』同様、今作にも明確な悪役は登場しません。

物語を現代にチューニングするためには、背景設定だけでなく、キャラクターの思考までもラディカルに変化させる必要があります。

あらゆるキャラに「ギャップ」が求められるほど現実と虚構の距離が縮まった現代では、善良な心を持ったヒーローが残虐な思考を持つ悪役と激突するという一面的な物語はあまり好まれません。

もちろん原作の「デビルマン」も単純なヒーロー譚ではなく、(「最も多くの作品に影響を与えたマンガ」と称されるように、)この作品において重要な点は、人間とデビルマンとデーモンの差異です。デーモンは変身能力を持ち、人間に化けることができ、また、人間に憑りついて、合体することもできます。この中で、憑りつかれてもなお人間の良心を失わなかった者だけが、人間の心とデーモンの身体を併せ持つデビルマンとして残ります。してがって、外見だけでは3者の区別ができません。疑心暗鬼に陥る人間たちは次第に他人をデーモンだと疑いだし、悪魔祓いの御旗のもとに私刑を始めていく……

原作では人間とデーモンは決して相容れない存在です。デーモンは強靭な肉体と残酷な精神だけを持ち、人間だけが心を持っているという明確な区別が存在します。

しかし、『crybaby』のおけるデーモンは少し複雑です。それを象徴するキャラクターとして、「シレーヌ」と「カイム」が登場します。アモンの恋人だったシレーヌ、シレーヌのために自己犠牲に走ったカイム。5話において、二人は合体してデビルマンを殺そうとするも、その寸前で息絶えます。

満足しきったその死に姿を、了は「デビルマンを殺せると確信したから」だと言いましたが、果たして本当にそうでしょうか?

明「了、悪魔にも、愛はあるのか?」
了「まさか、悪魔はある意味純粋な生き物だ。破壊衝動、捕食活動が彼らのすべてだ」
明「そうか。俺には、愛に見えた」

デーモンは本当に心を持っていないのか? 疑問が晴れないまま、デーモンと合体したゲイの陸上選手、幸田がデーモンに変身するシーンが世界中に露わになります。しかし、彼はデーモンと合体しながらも、かつての恋人を愛する気持ちを失いませんでした。

人間でも悪魔でもない存在=デビルマンとして、明は幸田を救うことに成功します。しかし、世界は他人をデーモンだと疑うようになりました。自分と他人のあらゆる差異は「デーモンによるもの」だと決めつけて拒絶し、「隣人を愛せなく」なった人間たちは、まるで心を失ったように私刑を始めていくのです。

9話の惨劇では、デフォルメされたアニメーションによって、暴走した人間の疑念と悪意が非常に象徴的に描かれています。

明「悪魔だ……お前たちこそ……地獄へ落ちろ、人間どもめぇえええ!!」

その一方で、ミーコは当初デーモンの力を得たことで揺れ動きますが、最終的には不動明とともに牧村美樹を助けることを誓います。悪魔と化す人間、愛を失わなかったデビルマン、恋をするデーモン……これらによって、人間とデーモンの違いはさらに不透明になります。

原作にもあるように、他人を思いやる気持ちがなくなれば、人間も簡単に悪魔に成り下がる。しかし同時に、悪魔も人間と過ごす中で他人に共感することができれば、デビルマンとして人間社会で生きられるかもしれないと、『crybaby』は伝えているのです。

その意味では、デーモンとは「他人を愛せない者たち」の象徴であるのかもしれません。愛という目に見えない存在が2者を分かつなら、両者の違いは狭いようで決定的なのかもしれませんし、逆かもしれません。正義と悪の違いは、それほど僅かで曖昧なのでしょう。

明「美樹! 戻るよ、君の所へ。俺は君から、一番大切なものを受け取った。俺が人間であり続けるのは、君がいるからだ。」

そして、この変更の影響をもっとも大きく受けるのが、もう1人の主人公、飛鳥了です。

湯浅「主人公の明が最初から最後までストレートに意思を貫く一方、了の方が展開があるというか、内面に変化や葛藤があるんですよね。永井先生自身もそう考えて描かれていると思います。
よくよく読むと、彼で始まって彼で終わっている。彼に何かを伝えるために明がいる。そんな気持ちで作っていきました。」
……「人生で最も衝撃を受けた漫画」湯浅政明は偉大な原作とどう向き合ったか

原作とアニメではプロセスが異なるものの、「飛鳥了」の正体は人間になりすましていた大魔神サタンです。サタンは天使から逃れるために意識の外に隠れ、人間に化けて社会に紛れ込むことで人間の弱点を分析していました。

もちろんデーモンであるサタンは他人に対して一切共感せず、表情を変えません。しかしその中で、サタンは長い時間を人間とともに暮らします。悪魔である自意識がないまま倒れていた彼を助けていたのは、誰よりも他人を思いやり、他人のために「涙」する少年、不動明でした。『crybaby』では、この部分に強くフォーカスを当てています。

『crybaby』のテーマ、そして湯浅監督の信念がもっとも現れているのが、「バトン」というメタファーです。今作では、明と美樹は陸上部に所属しているという設定が加わっています。陸上は人間と悪魔の身体能力差をもっとも露骨に表せるために追加されたそうです。しかし、「このメタファーのために陸上の設定を加えたのではないか」と疑ってしまうほど、「バトン」は作品の根幹に関わっています。

美樹「4K、私が三番手で、明君がアンカーよ。私がバトンを渡すから、ちゃんと受け取って走ってね。――約束だぞ」
明「ああ」

バトンとは言うまでもなく、共感、思いやり、愛のメタファーです。そして、「次の走者に託すもの」、人類を信じて、救いたいと願い続けた「ヒーロー」たちの信念です。

10話にて、デビルマンとサタンが最終決戦を繰り広げるなかで、印象的にリレーの描写が何度も現れます。

ミーコから美樹へ、美樹から明へ渡ったバトンは、しかし、了には渡らない。明はあくまで人間「不動明」として、人間「飛鳥了」に拳を振るいます。明の攻撃は、何度も明が了に渡そうとするバトンとリンクしています。明はサタンを倒そうとする中でも、最後まで了に対する愛を捨てませんでした。

しかし、了は「サタン」として、デーモンの敵である「デビルマン」に対して光線を放ちます。そして、明が何度も渡そうとしたバトンを、了が受けとることはなく、明は命尽きてしまいます。

上半身だけの明の死体に了が語り掛ける言葉は、原作では大魔神サタンとしての言葉ですが、『crybaby』では、人間「飛鳥了」としての、明との思い出でした。

何度も繰り返し描かれた「了ちゃんも泣いてる」という言葉と、子犬が死んだときのエピソード。デーモンである了には、死んだ子犬に対して泣く明の気持ちも、泣いてるという明の言葉の意味もわかりません。

しかし、明と過ごした時間と、明が投げ続けた「愛」は、確かに了の心に蓄積されていました。明の死を悟った了は、明の死体を見て、「涙」を流します。涙はもちろん、決してデーモンが流すことのない、人間だけが持つはずの器官です。最後の会話は、2人の間だけで交わされる極めて個人的なものですが、同時に人間からデーモンに近づいた者と、デーモンから人間に近づいた者の距離が、初めて0になった瞬間でもあります。

彼が「愛」に気づいたときにはすでに遅く、天使の攻撃が迫っていました。

一方で、9話では、明と美樹は必死で愛を忘れた人類にも、「人間を殺すな」と訴えます。

『crybaby』における牧村美樹は、外国人の父を持つハーフで、幼いころから聖書に触れて育ちました。有数の陸上選手で、SNSで多くのフォロワーを持つモデルでもあります。了は人間の強さは道具や武器を使えることだと言う一方で、牧村美樹は、愛が一番強いのだと胸を張って言い切るのです。

明が人間の心を失っていないことを信じて疑わない美樹は、自身のSNSで、暴徒化する人々に対してメッセージを投稿します。

みなさんこんばんわ。今日は、私の大切な人の話をします。
不動明君、さっきTVで見た人も多いと思います。彼は私の家族なんです。
明くんは、自分のことを悪魔ではない、デビルマンだと言っていました。
身体はあくまでも、心は人間だと。
私は信じます。
彼の心は元のままだと思うんです。
彼は、ひとのために泣く人なんです。昔から、幼い時から明君はそうでした・・・・・・
私が維持を張って泣けないときも、かわりに泣いてくれました。
明君が泣くときは、いつも誰かのためなんです。
自分が悲しいときは、全然泣かない・・・強いんです。心が強い、だけど人一倍人のために泣く。
世界中が明君みたいな人になったら、全ての人が幸せになるんじゃないかな。
人のために泣いて、人のことを考えて。そんなの夢かもしれない。
でも。
そんな心を持っている人なら、それがあくまでも人間でも、受け入れます。
無条件で愛します。
みんながそう思えば、平和が訪れる。
私一人が無力でも。一人一人が無力でも。みんながそう思えば。
世界は一瞬で変わる

公園で縛り上げた人間を拷問する人々に対して、デビルマン姿の明は何度も訴えますが、彼らは石を投げることをやめません。しかし、明が流した一筋の「涙」に、一人の少年が動きます。

持っていた石を捨て、デビルマンを抱いたのです。そして、彼に続いて、子供たちが、最後には大人たちも、次々と自らの行いを改めていきます。

同じ様に、最初は誹謗中傷で埋まっていた美樹のSNSにも、「私もデビルマンです」と、さまざまな言語で支援の声が届きます。

繋がった「バトン」は次の走者にわたり、自分の知らない誰かを動かし、そして、その円は世界に広がっていく。インターネットでデーモンの存在が露わになっていくのも特徴的ですが、SNSはデジタルな愛によってつながる人間の武器の1つと解釈することもできます。

しかし、デビルマンを忠実にアニメ化するというコンセプト上、物語が行き着く先は、必ずバッドエンドと決まっています。

拡がりかけた共感は、再びデーモンの手によって台無しにされ、美樹も家を追われます。結局、自分の存在を否定してくる大衆の「悪意」のために、牧村美樹は惨殺されてしまいます。

最も過激なアニメーションが伝えた、最も優しい物語

物語はもっとも残酷な結末を迎えました。バトンはつながらなかった。しかし、私は「愛」が確かにあったと感じます。

確かに、登場するキャラクターはすべからく不幸な結末を迎えます。しかし、それは役割を終え物語に不要になったから殺されるような、理不尽な死ではありません。彼らは限りなく能動的に生き、そして私たち視聴者もまた、彼らが精一杯に生き、信念を貫き通したことを知っています。

向かう先に地獄が待っていようとも、牧村美樹は最後まで走り続けました。「なぜ走るのか?」道具を使ったほうが合理的なのにもかかわらず、なぜ? それは、たとえどれだけ絶望的な状況でも、希望を信じているから。だから、美樹は最後まで走って「ヒーロー」にバトンを託しました。

登場するキャラクターすべてを丁寧に描き、視聴者に彼らの背景を明らかにすれば、キャラクターは世界で嫋やかに躍動することができます。それは、キャラクターに対して監督ができる唯一にして最高の「愛」です。

感情を細やかに伝え、丁寧にアニメートする、それによってキャラクターの真に根差した信念がわかる。私たち視聴者は、その信念が偽りではないと感じるから、どれほど「悪意」に満ちた行動をしていようと、本当の「悪人」などいないと信じることができます。

了が明にアモンを宛がったのは、明がもっとも傍にいたため、側近として最強のデーモンを備えたかったからですが、もしかしたら、最強のデーモンにすることで明にだけは生きていてほしかったからなのかもしれません。

片鱗は確かにあったのです。9話において、了は明との子供時代の写真を見て笑っています。何気ない仕草の中に、確かに人間「飛鳥了」は存在しました。両者の隔たりはあまりに深く、決して解りあえるものではないように見えます。それでも、不動明と飛鳥了なら、解りあえたかもしれません。二人が解りあえたことで、誰も死ななくて済む世界線が存在するかもしれません。

ただ、そのような結末を望むのはあまりに滑稽です。原作での不動明は人間も悪魔も早々に見限ってデビルマンを集めましたが、今作では、不動明や牧村美樹、「デビルマン」は、悪魔のような人間も、デーモンに取りつかれた人間も、サタンである飛鳥了ですらも、すべて救おうとしました。その行為は誰の目にも無謀に映ります。自分のアイデンティティを認めてくれない人々、異質なものを排除しようとする人々を、それでも救おうとすることは、正しくすらないかもしれません。

しかし、たとえ不可能でも、間違っていても、ヒーローとは、理屈を超えて、常識を覆し、1人ではなく、全員を救う存在のことを指すのではありませんでしたか。どれだけ悲惨な仕打ちを受けようと、明も美樹も、最後まで人間を見限りませんでした。そして湯浅監督もまた、飛鳥了をはじめとする、キャラクター全員にそのような救いを与える解釈をしました。最も過激でバイオレンスなアニメーションを通して伝えたかったのは、最も優しい物語でした。

それは正しくないのかもしれない。悪意で行動する者は処罰すべきかもしれない。それでも、誰も傷ついてほしくないと願い、人間を「愛」し続けた優しいヒーローに、私は憧れ続けています。

真の悪役は存在しない。「悪役」すら救ってしまう。そんな優しいヒーローこそ湯浅流であり、あるいはもしかしたら、現代に提示すべき価値観でもあるのかもしれません。

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引用

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