第17回/ジリアン・テット『Anthro Vision(アンソロ・ビジョン)――人類学的思考で視るビジネスと世界』
人類学の視点からビジネスにアプローチする
著書のジリアン・テットは、英国の経済紙『フィナンシャル・タイムズ』(FT)のアメリカ版編集長などを務めた、経済・金融分野の著名ジャーナリストです(現在はFT米国版編集委員会委員長)。
本書の前作に当たる『サイロ・エフェクト――高度専門化社会の罠』は、日本でもベストセラーになりました。
じつは彼女は、経済ジャーナリストになる前は人類学の研究者でした。英ケンブリッジ大学で社会人類学の博士号も取得しています。
FT入社以前には、中央アジア・タジキスタン共和国(当時はソ連)の小さな村に3年暮らし、現地の人々に溶け込む「参与観察」による調査を行っていたのです。
そのような特異な経歴が、ジャーナリストとしての活動にも生かされています。
前作『サイロ・エフェクト』も、文化人類学の視点から経済/ビジネスにアプローチすることで生まれたものでした。
本書は前作以上に、著者の人類学者としての素養が全面的に生かされた内容です。
「Anthro Vision(アンソロ・ビジョン)」とは聞き慣れない言葉ですが、これは「人類学(Anthropology/アンソロポロジー)的視点」を指します。
思い込みの外側から、人や物事を見る
門外漢の私たちには、人類学と経済・ビジネスというと、何の関係もない、対極にある世界に思えてしまいます。しかし、人類学者から経済記者に転じた著者は、自らの経験を踏まえ、そうではないと断言するのです。
《本書では人類学が企業経営者、投資家、政策立案者、経済学者、技術者、金融関係者、医師、法律家、会計士にとって有益な学問であること(誤植ではない)を説明していく。人類学的思考はアマゾンのジャングルだけでなく、アマゾンの倉庫で起きていることを理解するのにも有効なのだ》
アンソロ・ビジョン――人類学的視点から物事を「視る」ことによって、普通の経営者/ビジネスマンの視点から見ていただけではわからなかったことがわかるようになり、そのことがビジネスにも大きな利益をもたらすというのです。
そもそも、アンソロ・ビジョンとはどのような視点から物事を視ることを指すのでしょう? 著者は、その中身を示す《三つの基本思想》を、次のように説明しています。
《ひとつめは、グローバル化の時代には見知らぬ人々に共感し、ダイバーシティ(多様性)を大切にする姿勢を育むことが急務であるという考えだ。これは人類学者が最も得意とするところだ》
《二つめの基本思想は、どれだけ「異質な」ものであっても他者の考えに耳を傾けると他者への共感につながるだけではなく(それはそれで今日切実に必要とされていることだが)、「自らの姿もはっきりと見えてくる」ということだ》
《そして三つめは、この「未知なるものと身近なもの」という概念を理解することで、他者や自らの死角が見えてくるという考えだ》
以上のような3つの特徴を持つからこそ、アンソロ・ビジョンはビジネスの世界における気付きや発見に結びつきます。それは私たちが無意識のうちに持ってしまいがちな思い込みや偏見、凝り固まった思考フレームの、外側から物事を見ることを促してくれるからです。
一方で、旧来的な経済予測など、《これまで私たちが世界を理解するために使ってきたツールの多くは、どう見てもうまく機能していない》現状があります。
いまのような《変化の激しい時代、軍事専門家のいう「VUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)」の時代》の先行きは、これまでの視野の狭い常識ではとうてい推し量れないからです。
だからこそ、これまでとは違う広い視野と、見知らぬ相手、異質な相手のことを決めつけないオープンマインドな姿勢が、ビジネスにも不可欠になります。それをもたらしてくれるものこそ、アンソロ・ビジョンなのです。
人類学者が大企業を救った事例も多数
本書の前半で、著者は自身の研究生活も振り返りながら、《人類学という知的ツールがどのように生み出されたかをじっくり解説》しています。《今日的問題への実用的な対応法だけを知りたい方は、本書の後半に飛んでいただいて構わない》と著者は書いていますが、飛ばさずに読んだほうがいいと思います。
前半を読んでからのほうが後半がよく理解できますし、何より、「人類学入門」としても大変上質な内容だからです。
本書には、世界的大企業が人類学者を雇用している事例も数多いことが紹介されています。
《三〇年前には民間企業で働く人類学者はほとんどいなかった。だが二〇二〇年にはエスノグラフィーのスキルを身につけた社会科学者が、おびただしい数のハイテク企業で働くようになっていた。たとえばインテルが組織を立ち上げる直前には、人類学者のルーシー・サッチマン、ジュリアン・オーア、ジャネット・ブロムバーグ、ブリジット・ジョーダンがゼロックスで先駆的なリサーチ企画を生み出した》
《マイクロソフトはその後、世界最大の人類学者の雇用主のひとつとなった。アビゲイル・ポスナーは、トム・マスキオ、フィル・サールズら人類学を専門とするコンサルタントと組み、グーグルの社会科学部門を立ち上げた。アップルはジョイ・マウントフォード、ジム・ミラー、ボニー・ナルデイらから成るチームをつくった。消費財メーカーも人類学者を活用しはじめた》
そして、雇用された、あるいは調査を依頼された人類学者が、アンソロ・ビジョンを駆使して世界的企業の窮地を救った事例も、多数紹介されます。
中小企業で人類学者を「雇用」することは、なかなか難しいでしょう。しかし、本書には私たち一人ひとりがアンソロ・ビジョンを身につけるための方法が、いくつも提案されています。それらを肝に銘じて、少しずつでも人類学的に物事を見ることを心がければ、経営にもよい影響を与えるでしょう。
ジリアン・テット著、土方奈美訳/日本経済新聞出版/2022年1月刊
文/前原政之