父が亡くなりました。


(お急ぎの方は「第五章」だけでもお読みください)

自己紹介(ご存知の方は読み飛ばして頂いて構いません)

私は、現在「リンドウ」という名前でネット上に出没する46歳の男性です。エホバの証人(以下、JWと略)の母親に育てられた、所謂「宗教2世」、元JW2。伝道者止まりでバプテスマは受けておらず、排斥や断絶という手続きは取っていません。そのため、忌避の対象にはなっていません。2000年前後よりネットでJW問題に触れていた方は、もしかしたら「伊庭」(いば)というハンドルネームをご存知かも知れません。

JW2世にしては珍しく大学に行かせてもらい、教員養成課程のある大学を卒業した翌年度から小学校教員を5年経験しました。その間、結婚し長女を授かりましたが、色々あり離婚しました。

教員を退職してからは、実家へ戻り、約1年間の療養生活を経て、近所の本屋で書店員のアルバイトをしていました。副業として、小学校教員免許を活かし児童発達支援事業所の指導員として週一回、発達障害等を持った子ども達と関わる仕事を始めました。

2022年8月、勤めていた本屋が閉店し、現在はスーパーの惣菜コーナーでパートをしつつ上記の指導員もやっています。

序章 父とその晩年について

1945年1月14日生まれ。
地元の高校を卒業後は、工業系の短大に進み、そのまま自動車メーカーに就職。その頃、母と出会い結婚。1973年に姉が、1978年に私が生まれます(ちなみに生涯を通じてJWに対しては猛反対の立場であり、母は1975年に父に内緒でバプテスマを受けてしまっています)。

営業に回されたのに嫌気が差し、脱サラし喫茶店を開業します。が、料理なんて全く出来ない典型的な団塊の世代(よりも数年上ですが)の男性であり、かつコーヒーの味も分からないので、当然1年も持たず店を畳むことになってしまいます。私が3歳くらいの頃です。その後は職を転々としますが、一番長く続いた仕事はクリーニング店に機材や消耗品等を卸す会社での仕事でした。

(「何故母は父に喫茶店の開業を許したのか」という疑問が生じますが、母曰く「一度やらせて失敗経験を味わっておかないとずっと諦め切れない人だから」とのことでした)

今から20年ほど前に脳梗塞で倒れましたが、断酒・禁煙を頑張り、なんとか元気に暮らしていました。

2020年、コロナ禍真っ只中に便秘を訴え、ようやく病院に行けたときに腸閉塞と診断されました。手術して直腸を全摘出すると、既に大腸癌ステージⅣであることが分かり、ストーマ(人口肛門)になりました。在宅で抗癌剤治療をしていましたが、リンパや肺に転移していきました。筋力も衰え晩年は要介護2の認定を受け歩行器を導入しましたが、それを使ってもほどんど歩けないのに加え、認知症も進行してしまい私や母に暴言を浴びせていたり、意味不明なことを呟いていたりしました。例えば、それほど甘いものが好きではないはずなのに「おやきが食べたい」と急に言い出したり(地方によって名称が異なるあの和菓子。北海道では「おやき」と呼ぶ人が多いようですが、今川焼き、大判焼き、回転焼き、御座候、ベイクドモチョチョ(笑)などの呼び名があるそうです)。

そして、遂にその日を迎えるのです。

第一章 2024年10月15日20時59分

その日は火曜日でした。火曜日は児童発達支援の仕事の日。16時に00分ちょうどに退勤しました。バスで移動し前日に注文していた眼鏡を受け取りに眼鏡屋さんに寄って帰宅したのが17時10分くらいだったと思います。そのときには、父は既に入浴中でした。

自室でメールやSNSのチェックなどをしていると、母から私の本名を呼ぶ叫び声が上がりました。18時30分を少し回った頃だと思います。
筋力が衰えているので転倒しやすく、自力では起きられない、といったことが何回かあったので、今回もそうだろうと思い、2階の自室から階下へ向かいました。

母の真っ青な顔。その奥に見えたのは、湯の張った浴槽から上半身だけだらりと出して完全に意識の無い父の姿でした。母が発見したときには、身体全体が湯に浸かっていた状態だったそうです。母が一人でなんとか上半身だけ引っ張り上げたのでした。

二人がかりで浴室から出し、横にし、心肺停止を確認しました。
「お袋!何してんの?!救急車!」
「救急車ってどう呼ぶんだっけ?!」(おい、マジか、こいつ)
「119に電話!火事ですか、救急ですかって訊かれるから、救急って言うの!ここの住所!79歳男性!意識不明、心肺停止!急いで!」
それだけ叫んで、気道確保、胸部圧迫の心臓マッサージと人工呼吸を続けました。が、一向に動かない心臓と呼吸。もう半分諦め始めた途端、涙がボロボロと溢れました。それでも「諦めたらそこで試合終了ですよ」 という読んだこともないSLAM DUNKの安西先生の名言を自分に言い聞かせ、心肺蘇生法を繰り返しました。
119の繋がった先である消防指令センターに「息子さんに代わってれ」と言われたらしく、電話を代わりました。
「息子さん?あなた、救急救命講習とか受けたことは?」
ボロボロ泣きながら「あります」と答えました。
※大学生のとき所謂キャンプのお兄さんのようなボランティア活動をしていたときに受けました(カナディアンカヌーでの川下り体験等もあるため)。忘れないように何回か受け直したりしましたが。
「辛いと思いますけど、頑張って続けてくださいね。救急車もう向かってますよ」
その言葉に勇気をもらい、救急隊が現着するまでの数分間、心臓マッサージと人工呼吸を続けました。

19時00分頃、救急車現着。救急隊員さん達に後を任せたら、急に力が抜けてしまい、スマホからXに「父、心肺停止」とだけポストするという謎の行動をしました。

(ここまで書いてて結構辛くなって来ました)

母はオロオロするばかりで全く役に立たない状態だったので、私が救急車に同乗し救命センターへ向かうことに。スマホと財布を持ち、父の保険証とお薬手帳を預かり、救急車の助手席に乗り込みました。

19時30分頃、救急センター到着。「患者家族待機室」という部屋で待つよう看護師さんから言われ、そこで待っている間は妙に頭が冷めていて、またスマホからXに「救急車で救命センターに到着。現在処置中」とポストしました。

やがて、医師がやって来て、その時の父の容態を説明してくれました。
曰く、まだ完全な心停止ではないこと。アドレナリンを注射しているが、注射し続けないと止まってしまうこと。意識が戻る可能性は限りなくゼロに近いこと。手の施しようが無いこと。看取るしか無いこと。

もう覚悟は出来ていたので、冷静になりICUへ。父の顔はとても穏やかでした。呼吸器を外してもらい、アドレナリン注射も止めてもらいました。本来はその中で電話は使えないのですが、こんな場合なので、とのことで使用の許可をICU看護師さんにもらい、まず母へ電話しました。「落ち着いて聞いて欲しいんだけど」と前置きをしつつ、先ほど、医師からあった説明をそのまま伝えました。

「スマホ、スピーカーモードにして親父にも聞こえるようにするから、何か最後にお袋の声を聞かせてやって」
正直、母が何を言っていたのか覚えていません。

それからバイタルが完全に0になるまでの数十分の時間が辛いものでした。父の穏やかな顔が救いでもあり、悲しくもあり、とても書き表せない複雑な気持ちでした。

バイタルが0になり、医師が来て
「最後の診察をさせて頂きます」
聴診器を左胸に、ライトを瞳孔に当て(よくドラマなんかで観るやつです)、そしてそれらを仕舞うと腕時計を見やり
「10月15日20時59分、ご臨終です」
と告げました。そう告げられた私は、安堵と悲しみが混ざったような感情でまた涙を流しました。

第二章 死亡直後から大忙し

患者待機室に戻ると看護師さんから、ここからの流れを説明されました。

遺体は死因を特定し死亡診断書を書くため検査が必要なこと、事故死や事件性が無いことを証明するため警察が来ること、何事も無ければ私のほうから葬儀社へ搬送を依頼しなければならないこと、なのでもうしばらくこの病院で待機しなければならないこと、などです。

まず、母に穏やかに息を引き取ったことと、二つの職場へ忌引きを申請するために電話をしました。

副業である発達児童支援のほうは、社長の電話番号を知っていたので、夜遅くで申し訳ないと思いつつ連絡。ご丁寧なご弔辞を頂きました。小さな会社ですし時給で働くパート扱いなので、忌引き休暇制度は無いと思いますが、仕事に穴を開けることには変わりありません。この会社、三つの事業所を運営しており、私が働いているのはその中の一つ。明日の日中に所属している事業所へ改めて電話しようと思いました。

そして、メインの収入源であるスーパーの上司「主任」に電話しました。主任個人の電話番号は知らなかったので、その時間でも働いているスタッフに持たされる社用スマホへ電話して出た大学生のバイト君に連絡先を教えてもらいました(放射線技師を目指している医療系の大学生だったので話が早かった!正直苦手な子なんですけどその点だけは助かりました)。ここは大企業なので、忌引き休暇が5日適用されました。

検査と警察の対応にまだまだ時間がかかっているようで、患者待機室には誰も来ません。「何かあったら」と言われていた内線電話で看護師さんを呼び、お腹が空いたので外出しても良いかと尋ねたら不可とのことでしたが、院内の自販機でおにぎりと惣菜パンと飲み物を買ってきてくれました(当然お金は払いましたよ)。

やがて刑事さんが患者待機室にやって来て色々質問され、私の分かる範囲で答えました。母にも質問があるので、私のスマホをスピーカーモードにして通話してもらいました。それから、意識を失って我々が発見した現場での検証も必要とのことで、私達の自宅にも向かうと言われ、私も一度帰宅することにしました。行ったり来たりで二度手間になりますよ、と言われましたが、正直タバコが吸いたかったのです(笑)。葬儀社の手配もスマホではなくPCで調べたかったですし。刑事さんはとても良い人で、また職業柄慣れていらっしゃるのでしょう。快く病院側へ私が病院の外へ出る口実を伝えてくれました。警察車両には乗れないので、タクシーで帰宅しようとしましたが、まだ終電に間に合う時間だったので、最寄り駅まで歩きました。途中のコンビニでタバコを買い、外にあるスタンド灰皿で一服しました。嗚呼どうしようもないヤニカス。

電車で帰宅すると、既に警察が到着しており現場検証が始まっていました。先ほどの刑事さんもおり、母にその場を任せ、私は自室のPCで葬儀社を検索しまくりました。そのため今でもWEB広告が葬儀社だらけです。葬儀費用の安さと評価のバランスを見て一つの葬儀社を選びそのサイトがスマホでも見られるようにブックマークしておきました。それでも大急ぎで見たので、厳選は出来ませんでした。

現場検証が終わると、刑事さん達にお礼を言い、自分の車で病院に戻ることにしました。行き慣れていない病院なのでスマホのマップアプリが大活躍です。そして、無音で運転が怖かったので、モーツァルトのレクイエムを流しながらの運転です(※「アマデウス」というモーツァルトの伝記的映画が好きなので、購入したサウンドトラック音源がスマホの中に入っていました)。まぁ、気持ちの問題ですよ。
病院に到着し、患者待機室から先ほど調べた葬儀社へ遺体搬送の依頼を電話しました。おおよその到着時刻と搬送先を伝えてもらいました。実は母は父が一度自宅に帰って来るものだと思い込み、布団を敷いて安置する気満々だったのですが、そうなると費用が高くなるので、斎場へ直接搬送してもらうことにしました。なので母に電話して「布団片付けてもう寝て良いよ」と伝えました。

なるべく時系列で書いていますが、大事なことなので、ここだけ時間を遡ります。
葬儀社選びの前に母と話し合ったこと。「JW式でやるか否か」これが最大の問題であり懸念していたことでもありました。母から「お父さんは未信者(「未信者」という言葉、大嫌いですが便宜上使います)だから別にどういった形でも良い、喪主はあんたに任せる」と言われ、ひとまず安心しました。しかしながら、遺族の中には現役JWである母と姉がいます。父は次男でしたが彼の実家はお寺(真宗大谷派)の檀家です。ゴタゴタしないよう、なるべく宗教色を入れないプランのある葬儀社を前提に検索しました。

病院で、依頼した葬儀社さんが来るまで、少々トラブルがあったのですが、要旨から外れかなりの紙幅を割いてしまうので割愛します。

看護師さんから死亡診断書を受け取り、父の遺体が搬送車へ入れられるのを見届けた後、帰宅しようやく2時間ほど眠りました。診断書に記された死因が大腸癌であり、溺死ではなく苦しまずに逝ったのが救いでした。

第三章 斎場と葬儀

夜が明けると、母を車に乗せて父が安置されている斎場へ向かい、葬儀のプランやどういった形式にするのかなどをプランナーさんと相談しました。最終的に出してもらった見積もりは一番安いプランよりも少々高くなってしまいましたが、それでも宗教色を出来るだけ排除したので、一般的な仏式の葬儀よりも安くなったと思います。「儲」という漢字は「信者」という字だと言うのは本当ですね。

火葬場の空き状況から逆算し、翌日に葬儀を行い、終わり次第火葬場へ向かって荼毘に付すことになりました。参列してもらえそうな親族へ連絡。姉が入院中だったので、義兄であり共通の幼馴染みでもある長老兄弟に、母から連絡してもらいました。父の親戚筋には、たまたまスマホの中の連絡先が入っていた従姉妹の電話番号から叔母、先に逝った伯父の奥さんに連絡が付きました。

誰にも言ってなかったのですが、父の癌が肺に転移したと聞いたときから「父が逝くまでは」と願掛けで髪を切らずにいました。職場には「ヘアドネーションって男性でも出来るんですよね」とか言って誤魔化していました。しかし、その願掛けも終わりですし、喪主が中途半端なロン毛っていうのも少々おかしいと思い、およそ1年ぶりにベリーショートに刈ってもらいました。ビフォーアフターの写真があるので、見たい方は、こちらのInstagramでどうぞ。
@rindow873956
献杯したビールの写真の2枚目3枚目です。

理容室の帰りにダイソーで黒ネクタイを買いました。これ大事です。一回、多くても数回しか使わないものなのでダイソーで十分ですし、ダイソーの売上1位はネクタイなのだそう(別にダイソーさんをdisってるわけじゃありませんよ?よくお世話になってますし、まことしやかに噂されている創価学会との繋がりもほぼ無いようですし。創業者が創価大学卒らしいです)。

10月17日13時30分。シンプルな葬儀が始まりました。

喪主、私。母。一時退院の許可を得た姉とその夫の長老兄弟、伯母と叔母、たまたまロンドンから一時帰国していた従姉妹。参列者8人だけの小さなお葬式でした。

「喪主として、本日は故人のためにお集まり頂き大変ありがとうございます、といった堅苦しい挨拶をするつもりはありません。少しだけ父の最期のことをお話させて頂きます。(中略)最期に父の穏やかな顔を見てやってください」

副葬品は、脳梗塞で倒れて以来、20年間ずっと我慢していたビール(アサヒスーパードライ)を紙コップに注いだものと、これも我慢していたタバコ(ショートホープ)、ちょっとの間だけだったとは言え喫茶店のマスターだったのでコーヒー豆。私が用意して、斎場スタッフが納棺しやすように整えてくれました。

また、父が生前唯一オーダーメイドした一張羅の背広を着せ、きれいな死に顔に整えてくださった納棺師様にこの場を借りて感謝申し上げます。

一通り済むとハイエースで火葬場へ。姉と義兄、従姉妹はそこで解散し、遺体搬送車には、私、母、叔母、伯母が同乗しました。

火葬場で受付を済ませ、ロビーで順番が来るまで待ちました。一切の手続きを葬儀社スタッフがやってくれました。我々遺族は本当に待つだけ。トイレの場所、喫煙所の場所、飲み物が買える場所、どのくらいの時間待ちどんなアナウンスがされどこへ向かえば良いか、ロビーのどこに座るのか、全て教えてもらいました。流石毎日のようにやってるプロの仕事ですね。

火葬場のスタッフさんに「お線香と灯明を…」と言われかけたんですが、母が「あ、ウチは無宗教で」とか言い出すんで被せ気味に私が「宗教色をなるべく排除したいので、しません」と簡潔に伝えました。おめーは黙ってろ、似非クリスチャン。

荼毘に付し、無事お骨になり、親族とお骨上げをし、骨壺を持って斎場へ帰りました。斎場から親族を私の車で送り、帰宅しました。祭壇も仏壇も無いので、父が晩年過ごしていたリビングのテーブルにお骨を乗せ、仮の祭壇としました。長い長い二日間が終わりましたが、あまり眠れませんでした。お骨の前で、棺に入れた際に1本抜き取っていたショートホープを吸いました。

第四章 各種手続きや弔問対応の始まり

遺族がしなければならない手続き等については葬儀社あるいは斎場のプランに「相談は無料」が含まれており、その道のプロが葬儀の翌日早速訪問してくれました。

大きく分けて
・役所や法務局へ死亡を届ける手続き
・父名義で契約していたライフラインの名義変更or解約
・生命保険
・相続
となります。

期限も丁寧に説明してくださり、現在進行系でゆるゆると一つ一つ片付けております。

で、この章で最も言いたい部分なんですが、弔問客の対応です。

一番最初に弔問して下さったのは、お隣に住む町内会長さん。町内会で決められている額とは別に会長さんご自身からもお香典を頂きました。有り難いことですね。それから、ポツリポツリと親戚筋や父の古い友人達。皆さん、ご丁寧に菓子折りやお香典を持参して下さいました。Xでもポストしましたが、固辞してもし切れるものでは無いので有り難く頂戴しました。

未だに疑問なんですが「この度はご愁傷様でした」っていう挨拶に対してどう答えるのが正解なんでしょうか。私は、だいたい「わざわざお越し頂いて、ありがとうございます」と返答していましたが、間違ってますかね?こういう教養が無いのが私達宗教2世(特に生まれながらの2世)の弱みであると感じました。

で、ですね、

現役JW関係者がぞろぞろやって来るんです。正直、辟易しましたね。会衆の統廃合が何回もあったため、また私が実家からおよそ9年離れていたため(脱JWは25年前)、四半世紀ぶりに顔を見る兄弟姉妹もいましたし、全くの初対面の方もいました。

当たり前と言えば当たり前なのですが、JW関係者、誰一人としてお香典を持参しないんですよね。いや、別にお金が欲しい訳では無いんですよ。ただ、故人を偲び、遺族を思いやってくれたらそれで良いんですが、揃いも揃って「姉妹(母)は大丈夫ですか」しか言われて無いんですよ。母は「ただオロオロする」という役割で、その他諸々全ての役割が私、そして「死」という人生の最後にして最大のライフステージを乗り越えた父。誰を心配するか、の優先順位が、あの人達は間違ってるんじゃないかと思いましたね。まぁね、父も私も「未信者」で「反対者」ですからね、私に至っては「背教者」ですし、あの人達の考えではそうなるんでしょうよ。

お菓子やらお花やら下さったのには感謝していますが、このカードは最強に気持ち悪かった…。


今の現役JW感覚で作ってしまった、おおよそ遺族を思い遣ったとは思えない「カード」


まず、カードにするって言う発想が今時のJW的過ぎるというか…。内容も余計なお世話過ぎるし…。青海波文様は、意味を知ってて使ったのでしょうか…?

教訓としては、JWには何も期待してはいけない、ということですかね。

第五章 同じような経験をする全ての方へ

急に親御さんが亡くなる、そしてそこにJWが絡むという2世(3世以降も含む)という経験をするであろう人のために、このnoteを書いたのが、そもそもの目的です。大きなお世話かも知れませんが、ちょっとだけ先輩の経験者からアドバイスさせてください。箇条書きにしてみました。

・人は必ずいつか死ぬ。「永遠の命」なんて無い。
 まずもって、これが大前提です。

・日頃から葬儀社のサイトにアクセスしたり、近所に斎場があれば訪問しておく。
 「会員登録」や「資料請求」、「カタログをもらう」などで葬儀費用が割引になる場合がありますし、何より脳内でシミュレーションできるので、いざというときの心構えが出来ます。

・可能であれば、遺言書かエンディングノートを書いておいてもらう。
 「永遠の命」をガチで信じているような現役JWが親御さんであれば、かなり難しいかも知れません。私の場合、父は「未信者」でしたが、書いてもらおうと思ったときにはもう認知症が進行してしまった状況で何か文字を書くというのも無理でした。あるのと無いのとでは大違いです。私は母を説得し、「今度はあなたの番になるよ」と言ってエンディングノートを渡しました。幸い、母は「永遠の命」をそこまで深く信じていない、あるいは自分が死ぬまでにハルマゲドンが来ないと思っているのか、受け取ってもらえました。

・いざというときはスマホがあれば何とかなる。あと現金。
 関係各所への連絡、葬儀社・斎場の検索、マップアプリをカーナビ代わりに、無音が怖いとき用の音楽、その他調べ物等、スマホが無ければ乗り越えられ無かったであろうことがたくさんありました。常にバッテリーは100%に近い状態にしておくと良いでしょう。あと、クレジットカードが使えない、あるいは限度額を超えてしまう、という場合に備えて数十万円ほど現金をタンス預金しておくと良いと思います。

・「親が亡くなった」その時は自分の精神状態が異常であることを自覚する。
 これ、とても大事なことで、特に我々は精神疾患だったり発達障害だったり、心のコントロールが難しいケースが多い傾向にあります。「自分は今、冷静だ」と思えても実際は全然そんなこと無かったりするので、石橋を叩いて砕き割って川を埋めてその上を渡るぐらいの慎重さが必要かも知れません。

・専門家にお任せする。
 どうしたって分からない難しい法的手続き等があります。「相談は無料」とか葬儀社や斎場のプランに含まれている司法書士・行政書士等の利用を検討しましょう。私は二つの事務所から見積もりを出してもらい、安いほうに土地相続などの手続きを依頼しました。

・JWには何も期待してはいけない。
 むしろ邪魔です。その辺りは上手くやってください。JWから抜け出すっていうかなり難しいことをやって来た皆さんなら、できるはずと信じています。

終章 謝辞

2022年7月8日、安倍晋三元首相が銃撃され死亡しました。犯人(執筆時点では被告)が旧統一教会の2世であり、そこから「宗教2世」という言葉がメディアに上がることが多くなり、また旧統一教会やJWなどのカルト問題が取り上げられる時期もありました。時を同じくして、私のXのフォロワーさんも激増しました。

フォロワーさん達にはたくさんのことを教わり、また支えられることも多くありました。特にJWに関わった方で、3世以降の人たちがこんなにもいるということに気付き、またPIMOという言葉、存在も知りました。25年前に離れた組織がこんなにも劣化しているという情報にも驚いたり。

46年生きてきて、「ありがとう」と「ごめんなさい」が言える心が大切だと言うことと、そういう人になりたいと、ようやく思うことができました。だから、このnoteはフォロワーさん達に向けた恩返しだと勝手に思っています。ありがた迷惑かも知れませんがね。

私の場合、親元に住んでおり、片親が「未信者」、しかも忌避もされていないという状況で、かなりマシでした。多くのフォロワーさんはもっと困難で複雑な状況におられることでしょう。それでも参考になれば、と思い、このような長文を執筆するに至りました。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

また、父の最期にあたり、医療、警察、葬儀、手続き等で心を寄せて関わってくださった全ての皆様、心を痛めてくださった全ての皆様に感謝申し上げます。

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