自分の存在意義を失ったその後の話~サバティカル休暇日記⑭
サバティカル休暇に入って2週間ほどすると、最初はハイだった気持ちも落ち着き、不安が押し寄せてきました。
特に、社会からの疎外感を感じたり、自分の存在意義がわからなくなって気持ちが落ち込む状態に。
▼その時の詳細について書いたのがこちら
あれから時間が経ち、サバティカル休暇の終わりが見えてきた頃、自分の気持ちに折り合いがついてきました。今回は上記の記事の後編を書きたいと思います。
自分の存在意義を疑ったあとに生まれた2つの考え
「自分がいなくても世界は回る」
そんな現実を突きつけられてから時間が経つ中、こんなふうに考えるようになりました。
■わたしがいなくても回るのは、「仕組み」を作れた証拠
休暇に入ったあと、会社から特別に連絡が来ないということについて。これって裏を返すと
・休暇に入る前にしっかりと引継ぎができた
・「私に直接聞かなくても対応方法がわかるように」と作成したマニュアルが目的を果たした
・担当していた業務をほかの人にも対応できるよう、仕組み化できた
という証拠なんじゃないか。
また、週1で家出をしても家事育児に支障がなく、子どもが笑って送り出してくれるのは
・「家族は最小単位の組織。会社と同じように、万が一どちらかかが欠けても組織が継続する体制をつくろう」という考えの下、子どもが新生児のころから旦那さんも母乳をあげる以外の全ての育児ができるようにしてきた
その結果が出ているだけなんだ。
と、会社にしても家庭にしても「きちんと仕組みをつくれた証拠」と、ポジティブにとらえるようにしました。
■自分が自分を承認できたらオールOK
また、自分の存在意義を疑う経験をして、自分の中の「承認欲求」に気づきました。
あなたの為にこれだけのことをした、私を認めてよ。
そして、認められなかったら、認められない自分の存在を疑う結果に。
でも、他者から認められたい一心で行動しても、他者にとってのわたしなんて、所詮、他人でしかないんですよね。
もし逆の立場で誰かがわたしに「あなたの為に〇〇やったんだから、認めてよ!」と言われても、「わたしの為にやってくれた気持ちは嬉しいけど、認めてと言われても困る…」と思ってしまうかも。
であれば、他者からの承認に自分の存在意義をゆだねるんじゃなく、自分で自分のことを承認してあげたらそれでいい。
誰かから承認されることなんて最初からあきらめて、自分で自分の存在意義を認めてあげたら、それ以上何も求めなくてもいいじゃない。
そう考えるようになったんです。
ポジティブに、あきらめた結果
一方ではポジティブに、もう一方ではあきらめの気持ちで自分に向き合ったら、いつの間にか自分の存在意義を疑って不安になっていた自分がどこかに消えていました。
果たして、この考えが正解なのかはわかりませんが、不安が消えたので当面はこの考えを抱えて前に進もうと思います。