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その善意は、誰かの機会を奪ってない?

35歳で一人目の子どもを出産した。

出産後は交通事故にあったのと同じくらい身体がダメージを受けてるらしい。全身が痛くて自分ひとりが日常生活を送るのさえも大変なのに、赤ちゃんのお世話がもれなくついてくる。

「この身体で、生まれたばかりの赤ちゃんを育てながら家事するのは無理!」と悟ったわたしは、東京で出産した後、自分の実家に1カ月帰省することにした。

5日間の入院を経て実家に帰ると、初めての女の子の孫にテンション上がった実母が「これ、娘にプレゼント」と肌着にカバーオール、靴下と帽子、そしてスリーパーまで……あらゆる服をタンスにいっぱいにプレゼントしてくれた。

そんな経緯があり、私は、産後1年くらい自分の娘に洋服を選んで買った経験がほぼない。

あの頃の娘の写真を見返すと、残念さと後悔が押し寄せてくる。

どちらを選んでも、心の奥がザラザラ

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せっかく買ってくれたから、と、惰性で着せてたプレゼントの洋服。正直、色白の娘に黄みがかったその色は、びっくりする程似合わない。

子どもの大きさも写真でしか見てないから、サイズも全然合ってない。

何より一番の問題は、私と母の服の好みが違うこと。

色も形も好みも、何もかもが似合ってない服を来てにこにこ笑う写真の中の娘を見て、なんともいえない気持になった。

もちろん、「もらった服を着せない」という選択肢もあった。

でも、それはそれで「せっかく娘のためにウキウキしながら選んで買ってくれたんだよな」と思うと、その気持ちをふみにじる気がして、結局プレゼントしてくれた服を着せていた。

心の奥に、ザラザラした感じを抱えたまま。

あの時の後悔から学んだこと

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本当は、お店で見て気に入ったあの服を、娘に着せたかった。
こんな気持ちになるなら、「あんなにたくさん服があるのに、買う必要ないしな」とか思わず、自分が選んだ服を買って着せてあげればよかった。

ちょっと後悔しながら似合ってない服を着た娘の写真を見てたら、こんな考えが頭に浮かんだ。

「好意そのものはありがたい。けど、好意で何かをすることによって、誰かの機会が奪われることもあるんだな。」

今回の服の話に限らず。

例えば、仕事で困ってる後輩の手助けをすることが、もしかすると彼/彼女の成長の機会を奪うとかね。

この先娘の写真を見返しても過ぎた時間は戻らないから、この経験を糧に、自分のよかれと思って取った行動が誰かの機会を奪わないか考えて行動しようと思う。

あと、もし数十年後に娘に子どもが生まれて孫ができたとき、何かプレゼントしたくなったら一緒に買いにいくんだ。



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