見出し画像

愛しているという諦め

母が体調不良になった。付き添いをしていて、心臓が飛び出るかと思うほど私的壮絶な時間を過ごし、ひょんなことから障害を持つ人を身近に感じるようになった。

まだまだ障害や介護のリアルを私は知ることができていないと自覚はありつつ、生きづらさを感じながらその体験を他の誰かのために活かしたいと思い活動している人達から今は生きる力をもらっている。

家族のことで3歳の物心ついたときからずっと悩んできた。愛をもち続けることも、夢を成し遂げることも大変ではあるけど、それよりも見捨てたり諦めたりする方が私には難しい。
愛していることで自分の大切なものを気付いたら犠牲にしている気がして、こんな自分をやめたい。わたしのために、こんなわたしをやめてあげたいと思うことが年々増えた。

それでも、家族のことや家族のように認識している友人・同僚を無視できない自分がいる。自分が傷つく度、そんな自分を責めて、今度こそわたしはわたしのために生きようと決意する。

でも、もういいのではないか。
何かを決めなくても。
誰を愛し、大切にしたとしても、そうしたいからそうする、その事実だけわかっていればよいのではないだろうか。

というのも、私の中には基本的に愛があってそれを表現したり与えないと気が済まないのだ。元々愛があるから、ないと不安になったり与えないことを悪だと思う節がある。でも、元々ないものだとすればどうだろうか。

元々何も無い。愛も希望も夢もなかったとする。そしたら、今の状況にはなんだか泣きたくなる。あることがありがたいと思えていないのがなんだか可哀想で、無いと思っていたら実はあった!ということへの安心感で、たとえなかったとしてもわたしはわたしでいることができる気がするという嬉しさで。

わたしは今のわたしでここにいることを選んだ。家族も同僚も身近に置いている人を愛している。

そして、同時に諦めてみる。今のわたしであること、ここにいること、今を愛していること、愛が返ってこないこと、etc…

すると、不思議な感覚と一緒に、今わたしがわたしに体験させたいことがあるみたいだった。いくつかの願いが大小同時に浮かんできた。周りの人や今の状況に諦めても、愛をもったわたしがいれば未来は続いていくだろう。

いいなと思ったら応援しよう!

Okarina*
もしよかったらサポートお願いします!また素敵な文学に出会うための活動費として使わせていただきます❤︎