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創建百年、「明治神宮の森」は永久に循環するビオトープだった

猛暑に焼けつく8月の週末、久しぶりに明治神宮の森を散策した。庭好きの友人との都内”探庭活動”は究極のマイクロツーリズム。とは言え、この暑さでは鎮守の森の日陰無しには15分と歩いていられない。

今年創建百周年を迎える明治神宮は、私たちが愛してやまない大都会の緑の聖地。ファッションの街原宿の駅のすぐ隣に、東京ドーム15個分の広大な敷地の荘厳な森が広がっていることを、一体どれだけの人が意識しているだろう。

掃き清められた参道を日陰で包む広葉樹の大木、軽井沢を思わせる森の小道、起伏が美しい日本離れした広大な芝地。意外にも外国人の方が上手に楽しんでいるように思えるこの場所を、もっと多くの日本の人にも知って欲しいような、実はあまり知られたくないような微妙な想いで見守っている。

「大都会に永遠の森をつくる」。100年の昔、荒地だったこの場所に当時の林学者たちが英知を賭けた一大プロジェクトは、人が手を加えなくても木々の成長と自然の循環だけで「原生林」を営んでゆく究極の持続可能システム。

まるで今の世界的な緑化論争を100年前に具現化してしまったような大胆な挑戦に驚かされているうちに、私たちのマイクロツーリズムはいつしか時空と子午線を超えた”マクロの旅”に広がってゆく。

蝉しぐれの中しばらく参道を歩いてからハッとした。顔を覆ったままの大きなマスク、長く続くコロナ対策で外の世界と距離をおく生活に慣れ過ぎてしまったようだ。万緑の中にいながら自分の吐く息と汗のにおいを反芻しているとは情けない。ここは野外、時々はマスクを取って歩こう。

耳掛けを外して鼻から大きく息を吸うと、景色がそれまでと違った“息づく森“のリアルさで五感に迫ってくる。

草いきれ、樹木のさざめき、落葉と土が醸す豊かな匂い。
ひょうきんに道を横切ってゆくトカゲの蛇行。
キラキラ光るみごとなクモの巣、その真ん中で獲物を待つ主の長い脚。
幾種類もの声が重なる蝉たちのポリリズム。

「森は生きている」
子供の頃に読んだ本のタイトルのように、“いきものたち”の棲息とそれを見守るものの気配にここは満ちている。今私が踏んだ一歩の下にもきっと無数の昆虫や微生物が蠢いているのだろう。

帰り近く、御苑の敷地に入ったところで木々の景色が一変した。
木屑の粉で足元を真っ黄色にした大木が痛々しくビニールの腹巻に覆われ、一見無事に見える木もペットボトルをつなげたような“害虫駆除”のトラップを腰蓑のようにぶら下げている。

詳しい友人が教えてくれた。「ナラ枯れ」という昆虫由来の疫病にやられているのだという。目を上げると池の向こうの高い木は葉がすっかり茶色く枯れている。赤いビニールテープで識別された木は、トリアージの「黒」“処置ナシ”か……。木々の間をオガ屑のような死の匂いが漂う。遠足気分だった私達の脚が重くなってゆく。

気候変動が原因ともいわれる樹木の病気。100年前の科学者達もここまでの温暖化とその影響までは想定していなかったのだろう。計画時150年の歳月によって完成されることを想定した人工の原生林が、今100年の節目を前に早くも完成形に近い成長を遂げているというが、それはむしろ危険な兆候なのかもしれない。急ぎ過ぎた進歩、無軌道な都市化、じりじりと焼け焦げてゆくヒートアイランド……。

遅ればせの気づきと試行錯誤を経て、ヒトは、私達は、軌道修正に大きく舵を切っていけるのだろうか。今から50年、造営から予定通りの150年のスパンを経て「永遠に生きる森」が完成することを信じたい。

博士達は歴史になり、私達もとうに居なくなった東京の街に「森」が生き生きと活き、生命の匂いを放ち続けている。そんな未来を祈りながら、私たちは深く一礼をして大鳥居を後にした。

スマホの歩行記録はそろそろ20,000歩に近づいている。「ああ、ビール飲みたあ!」
原宿の街の陽射しから逃げ出すように私たちはタクシーに飛び込み、何事もなかったようにエアコンMaxの冷気に歓喜する矛盾に気づかない。

【参考】明治神宮の森:  林学者や造園家によるナショナルプロジェクト
【連載】余白の匂い
香りを「聞く」と言い慣わす”香道”の世界に迷い込んで十余年。
日々漂う匂いの体験と思いの切れ端を綴る「はなで聞くはなし」
前回の記事: 「梅仕事」~ 梅雨のおくりもの ~

【著者】Ochi-kochi 
抜けの良い空間と、静かにそこにある匂いを愉しむ生活者。Photoギャラリーはじめました。「道草 Elegantly Simple」


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