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愛されるよりも愛することを。執着は手放していける。

慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することをわたしに求めさせてください。

平和の祈り(アッシジの聖フランチェスコ)

あたまでは、よく分かるこの理想を
声に出して読んだ時、とてもむず痒い気持ちになった。
できれば口にしたくなかった。

私は
慰められたいし、理解してほしいし、愛されたい。
心の奥ではずっとそう求めてる。

だけれど、求めるべきは、
相手からされることを待つよりも、自らがすること。

私はそれを全然できていないなぁと、
祈りの言葉を口にしながら、心がえぐられました。


慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することをわたしに求めさせてください。

そんなこととてもできないよ。
一見とても難しくて、きれいごとの理想論であるように感じるこの言葉。

それでも、

慰められたい。理解してほしい。愛されたい。

その欲求を持ち続けている方が、とても苦しい。
ほんとにほんとに、ほんとに苦しい。

求めても求めても、全く満たされない心と、
相手の言動に左右される感情、健全に築けない人間関係。

慰められたい。理解してほしい。愛されたい。

その執着は、求めれば求めるほどに、
自分でもどうしようもないほどに膨れ上がり、
自分自身も周囲の人も疲弊させる。

苦しさもどんどん増していく。

ネガティブにしか物事を見れず、
さらに心が落ちていく悪循環。
抜け出せなくなる。

だからこそ、

慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを

そう求めてみることで、
こびりついた手強い執着が、長い時間をかけて少しずつ消えていく。そんな気がしている。

他者のためのきれいごとの理想論の祈りではなく、
結果的に、自分のための祈り。

執着を手放すための祈り

執着を手放し、自分の心を解放していくと、
心身が整い、自身の滞りがなくなる。

自分以外に目を向ける余裕が生まれ、

慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを

これを、さらに広く実践していくことが
できるのだと思う。


この祈りの言葉を、完全に受け入れられていなくても、とりあえず口にしてみて。
視覚だけでなく、自分の耳からも言葉を入れてみる。

納得できなくても受け容れて、繰り返すうちに、
いつしかそれが自分の心の中に入っていく。
(これが受け入れるということ)

心の持ちようが変化し、
そのうちに行動が変わっていく。

長い時間がかかるかもしれないけれど、
そうやって強い執着を手放していける。

この祈りの言葉には、そんな力があるような気がしています。

クリスマス讃美夕礼拝で祈った、「平和の祈り」から。全文もシェア。

主よ、
わたしをあなたの平和の器とならせてください。

憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いがあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇があるところに光を、

悲しみがあるところに
喜びを示す者としてください。

ああ、主よ、
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することをわたしに求めさせてください。

なぜならわたしたちは、
自ら与えることによって受け、
赦すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
永遠の命に生きることができるのですから。

アーメン

平和の祈り(アッシジの聖フランチェスコ)

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Rina Okahara
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