青くて痛くて脆いと、瀧本さんのこと
原作小説の編集を担当した『青くて痛くて脆い』が、8月28日に映画公開された。
原作はこちら。
https://promo.kadokawa.co.jp/kutekute/
担当させて貰った作品はそれぞれに愛おしいし、魅力的な本はいつも一億部売れてくれと叫びながら仕事をしているけれど、『青くて痛くて脆い』は編集者としての青春だったなとは思う。個人的に、作品は常に読者さんのためのものであるべきだと思っているし、そういう意味では作品以外のもの、ましてや編集者のオキモチというのは基本的にノイズなのだが、なにやら感傷的な気分になっているので、自分のために整理を試みたい。
原作者の住野よるさんとの出会いは、2015年まで遡る。私はまったくの新人で、編集部の片隅で日々きょろきょろしながら過ごしていた。そんなときに知人に教えてもらったのが、当時「小説家になろう」に投稿されていた『君の膵臓をたべたい』だった。サイトのメッセージから拙い感想を送り、あなたと仕事がしたいと連絡をした。作家に自分から声をかけるのも初めての経験だった。
そこから『青くて痛くて脆い』の刊行まで、3年かかった。その間、信じられない回数の打ち合わせを重ね、一緒にお酒を飲んでは街中の店が閉店するまで居座った。もうひとり、雑誌連載の担当がいたのだが、三人ともそれぞれに大人げなく、よく喧嘩をした。
作家と編集者の「正しい会話」もわからず、住野さんとはあらゆる話をした。そんな中での話題のひとつが、私が大学時代にのめり込んでいた、ドリームネットという学生団体についてだった。学生と卒業生が一緒に活動する団体で、学内の人間が「なりたい自分になる」ことをあと押しするという、なんとも「意識の高い」集団だった。『青くて痛くて脆い』の作中に出てくる「モアイ」というサークルは、ドリームネットの概要をもとに住野さんが生み出したものだ。
(念のための蛇足だが、『青くて痛くて脆い』はもちろん実話でも、モデルがあるわけでもない。こういうとき、作家さんの想像力というものはすごいなと感じ入る)
寺山修司になりたいと思って大学に入り、ふらふらしていた私が働くのも悪くないと思ったのは、ドリームネットで出会った社会人たちのおかげだった。彼らがいなかったら自分は出版社(というか企業)に入ろうとは思わなかったと思うし、結果として住野さんと出会うこともなかっただろう。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになる。
脱稿の際の住野さんのホッとした顔は忘れられない。悩んだ末、私は単行本の帯に「僕たちは、あの頃なりたかった自分になれたのだろうか。」とつけた。そして、「青春が終わる」とも。
当時、先輩編集者から「(編集者としての)青春だねえ」と半ば苦笑されていたし、自分でも多少常軌を逸した仕事の仕方だということは薄々気が付いていた。そして、そんなやり方はずっと続かないということも。
『青くて痛くて脆い』は素晴らしい作品なので(何度でも言うけれど、素晴らしい作品なので)、刊行されてからさまざまな反響があったのだが、個人的に感想をくださった方のなかに、瀧本哲史さんがいた。ドリームネットの活動に卒業生として関わってくれた一人だった。
瀧本さんがどんな方だったのかは、彼が遺した著作を読めばよいので割愛するが、個人的に印象に強く残っているのは、「人生を変えた本はあるか」という話になったときに、「たった一冊の本、何かの出会いがきっかけで人生がガラっと変わるなんて神話」と言い放ったことだ。一瞬一瞬の意思決定に責任を持ての意だと解釈しているが、今でも偶に思い出す。そして、編集という本にかかわる仕事を続けるうえで、書籍を愛し自らも複数の著書を持つ彼のその言葉は、常に心のどこかにちくちくと残るものだった。
数年のブランクののちに久しぶりにお会いしたのは、私が卒業生として出向いたドリームネットの交流会の席だった。わざわざこちらに来てくれて、『青くて痛くて脆い』を読んだと言い、
「結構、いい仕事をしていますね」
とのことだった。彼は気を遣って心にもないことを言う人ではないので、少しほっとした。それが、瀧本さんと交わした最後の会話だった。
その後、紆余曲折あって私は最初に入った会社を退職し、現在は別の版元でまた文芸編集者として働いている。いまでも素敵な原稿が届くと興奮して眠れなくなったりするし、編集とはなんと楽しい仕事なんだろうと感じている。が、20代の終わりを間近にして、過ぎ去ったふたつの青春について、時に考え込んでしまうことがある。
そしてふと思う。
私は、あの頃なりたかった自分になれたのだろうか。