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「自分の人生」を生きることの大変さ

ある人から見えば、羨ましいと思われる人生

ある人から見れば、私の人生なんてそこらへんにありふれた人生




結局、人生の価値なんて言うものは常に相対的に見て判断するものだ


「自分らしく生きる」とか、「周りがどうだろうと、自分がやりたいことをやればいい」とか、

もちろん言いたいことはわかるし、私だって比較的自分の納得感があれば周りにどう思われようとアクションを起こす方ではある


が。


時々、自分の人生を生きているようで、生きていないんじゃないかという焦燥感とも、絶望感ともいえない、複雑な気持ちになるときがある



この世に存在していられる時間は限られているのに、何なら死ぬことにすでに少し恐れを抱いているのに、あと何十年とある人生という時間に、飲み込まれそうになる



自分のためにやっていると思っていることが、何かの気持ちを紛らわせるための行為だとしたら、周りと比較して起こした行為だったら、それは自分’の人生を生きているというのだろうか


どんな理由であれ、自分に新しい気持ちや価値観をもたらす行為は自分の人生の糧になるというのも間違いなく事実なのだが、私はそこに至るまでの動機にも、どうしても目が行ってしまう


そしてその理由をあれこれ考えていると、自分を絶対的存在として扱うことなんて無理だし、それがさも実現できるというような発言を、自分はそう考えられているというような発言をみると、とつてつもなく息がつまりそうになるのだ



理想と、現実と、虚構と

他人と、自分と、世界と



何が自分のとって「価値がある」ことで、何がそうではないのだろう


自己肯定がすぎる人間にでも生まれたかったものだが、残念ながら低すぎる人間に生まれた以上、こうして何度も自分の人生の価値、ひいては自分の価値を何度も考えるしかないのだろう






友人があるとき言った、「考えない葦はただの葦」というフレーズがお気に入りなのだが、何も考えない人間よりかはましであるという、ちょっとばかしの自己肯定に身をうずめて、少しばかりの安堵に包まれながら、今後も自分の人生”らしきもの”を懸命に生きていくのである




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