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生み出す側と見守る側。

土曜の昼下がり、新しくできたおしゃれなコーヒーショップで、昔少し流行ったFlat White Coffeeとチーズケーキを頼んで、お互いパソコンをいじっているのがいま。


ここはなんとも開放的な空間でいい。




わたしがこうして初投稿のnoteを書いている隣で、彼はcodingをしている。


そんな彼の姿をみるのがだいすきだ。

そして、隣で別のことをしているこの時間も。







何かをつくれるって、素晴らしい。

わたしは生み出す側ではなく、どちらかと言えば誰かのやりたいことを実現するためのお手伝いをするほうが性に合っていて、ずっとそうしてきた。



一方で、自分の想いや考え、原動力は何でもよくて、それをなんとかかたちにして世の中に伝えていこうと思える何かがあるのがすごくうらやましくて、あこがれてた。





幼少期、わたしはヴァイオリンとかダンスとか、生み出す側の習い事をずっとしていて、でもなぜかなりれなくて、伝えきれなくて、

そんな自分が居心地悪くて、結構長く続けたのにやめた。






そうやって振り返ってみると、わたしは何かを生み出す側になりたくて、でもなりきれなかった結果、いまのポジションを確立したのかもしれない、とか思ったり。



でも少なくともいまは生み出す側になりたいという欲求よりも、誰かが何かを生み出すために作業しているのをそばでみているのがすきで、生み出す側になったらもちろん新しい発見や感覚を得られると思うけど、こうしてそばで見て感じている幸福感とか、見ているから発見できる彼の何気ない仕草には気がつけないかもしれないと思うと、実はあえて見守る側で居続けているのかもしれない。





「みてみて!ここまで動くようになった!」って、無邪気に笑いながらデモを見せてくる彼を見るたび、わたしは彼から愛おしさとわくわくと、わたしも何かつくってみたいかもという好奇心を与えられる。


きっと、そうやって周りにつくることの楽しさを伝えられるひとこそが、本当の生み出す側のひとなんだろう。



そんなことを思いながら、わたしはいまから彼のつくりかけのアプリのデモを見るのである。




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