自分の「声」の伝わりやすさは、結局。
ああ、もっと声が大きくなったらいいのにな。
影響力的な意味ではない。
物理的な意味である。
わたしは声が小さいのだ。
どのくらい小さいのかを説明しよう。
家の玄関を出たら、ちょうどお隣さんも玄関前に出ていたので挨拶をする。それが相手の耳に全く聞こえないようで、華麗にスルーされるのである......!
「こんにちは」というわたしのささやかな言葉が、さみしくその空間にたゆたう。
あの無言の時間の居たたまれなさは、声の大きな人には想像できまい。
念のため言っておくけれど、隣の家といっても100m離れてるんですということではない。東京の住宅地らしい、小さな家がぎゅうぎゅうのエリアだ。
どう考えてもわたしとお隣さんの距離は2mくらい。
あるいは、お隣さんに本気で嫌われている......?!
お隣さんと言ってもほとんど話したことがないし、騒音も出してないはずなので、きっと違うと信じたい。
うちの母によれば「挨拶すれば返してくれる」という感じのようなので、純粋に、本当にわたしの挨拶が聞こえていないんだろう。残念すぎる。
近くに大きい道路があるわけでもない、静かな住宅地なのに。
わたしの声は外の世界に放たれたあと、ぼんやりとそのあたりを漂い、伝えたい人の耳に届く前にどこかに消えてしまうみたいだ。
そんな理由もあって、わたしは人前に出るのがあまり得意ではない。
自分の声が小さいということに本格的に気がついたのは、大人になってからだけれど、人前で話すことに苦手意識を感じ始めた頃と一致する気がする。
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ここまでの文章をダラダラと書きながらふと思い立ち、声を大きくする方法を調べてみた。
「遠くの人に話しかけるように話す」という方法に目が留まる。
なるほど、確かにわたしは漠然と大きく話そうとしていたかもしれない。
部屋の一番後ろにいるこの人に届ける。そう思いながら話せば、大きい声が出そうな気がする。
なんかこれって、コンテンツに関しても同じなんじゃないかといま、思った。
明確に届けたい人、ペルソナでもいいから、伝えたい相手がないものは結局遠くまでは届かない。
届けるべき人にたどり着く前に、わたしの声みたいに、どこかに消えてしまう。
コンテンツの海に飲まれて沈んでいく。
今度お隣さんに会ったら、なんとなく挨拶をするのをやめて、ちゃんとお隣さんの顔を見て、挨拶してみよう。