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「メンバーを使う」という言葉への嫌悪感

「きっと部長側の『森逸崎の使い方』の問題もあると思うんだよな」
久しぶりに会った元同僚は私にそう言っていた。
私の退職理由について、彼なりに思うところがあったようである。

もちろん理由は別にある。
彼が私のことを心配してくれての言葉だということも分かっている。悪気は一切ないだろう。
でも、だからこそ危険だとも思う。

私はどうしても違和感が拭えなくて、その場で彼に求めてしまった。

「ねえ、私以外のメンバーに、間違っても『使う』なんて言葉、使わないでね」


◇◆◇

私がメンバーのことを「使う」と表現して欲しくない理由はいくつかある。

ひとつに、そもそも言われた側が不愉快である。
たとえマネジメントする側にその意図がなかったとしても、「ああ、この人は私のことを目標達成の駒や道具としてしか見ていないんだろうな」とつい思ってしまう。そしてそう思った瞬間、少なくとも私は「一緒に戦うチームメンバー」ではなくなる感覚を持つ。

次に、それを言う人自身が孤独になるとも思う。
先述のように一緒に戦うチームのはずなのに、マネージャーがメンバーを「使う」感覚でいる以上、それは使う側と使われる側を明確に分けてしまう言葉だ。
一緒に戦うのではなく、「マネージャー1人が」「メンバーを使って」達成した図。これではいつまでたってもマネージャーは1人で戦っている感覚が拭えないとも思う。


最後に(これが一番大きな理由かもしれない)、そもそもメンバーのスキルや才能は、マネージャーの所有物ではない。
マネージャーがそれを使えるようになることよりも、メンバー自身が「自分で自分のスキルや才能を使えるようになる」ことの方がよっぽど重要で、よっぽどパフォーマンスを発揮しやすいと私は思う。

それに、マネージャー自身が「あるものを最大限使う」という感覚でいると、使うマネージャーの度量までしか組織が成長できない。つまり、そのマネージャーを超える人材がその組織では育たなくなる気がする。

◇◆◇

もちろんマネジメントする側がメンバーに対して「使う」という表現をする背景もよく分かる。

それに、半ば自分の意志を捨てて言われるがまま馬車馬のように働いていた私は、文字通り「使う」という言葉が最適だった。だけど、今後その会社に必要なのはそういう人材ではないだろう。

軍隊みたいな組織から脱するためにも、本当は認知科学コーチングの体制を入れたいと思って準備していた。けれどそれをやる前に私は、行き過ぎた疲労によって体調を崩してしまった。

傲慢に彼に託す訳ではないが、メンバーの今ある姿を「使う」のではなく、どうか彼には、「メンバーが自分で自分の能力を使いこなせるように」してあげて欲しいと思う。



外から言う分には気楽なもんだけど。
やっぱり好きだからさ、あの会社。





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