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鷲見和紀郎展「brilliant corners」にて、自由を見る

横浜で9/25まで行われている、鷲見和紀郎すみわきろうさんの個展に行ってきた。


ヴェールに包まれた人

1950年岐阜県生まれ、千葉県在住の美術作家。

資生堂ギャラリー、神奈川県立近代美術館、府中市美術館など、全国でも数多くの美術館やギャラリーに作品を提供している。
東京ディズニーランドの美術装飾を手がけたこともあるらしい。


実は鷲見和紀郎すみわきろうという人物は私が今住んでいる家の「ご近所さん」のひとりなのだけど、彼はいつも向かいの庭で黙々と仕事をしているか庭の笹垣の剪定をしているか、会えば挨拶をする程度でしかなかった。

この個展も、従姉妹から話だけは聞いていたけど行くきっかけを掴めず、たまたま打ち合わせで横浜に行くことを父に伝えた際の「鷲見さんの個展行ってきたら?」という提案なしには行くことはなかっただろう。

寡黙で謎な人。それが彼に対しての印象である。


(個展詳細はこちらを参照)



美術音痴が見た空間

個展のイントロダクションにはこうあった。

建築においてコーナーは左右の壁+床と天井の4つのディメンションで構成されています。インスタレーションにおいても4つの空間要素が集約される魅力的な場所にも関わらず、文字通り普段は片隅にあってほとんど見過ごされています。(中略)
まがりなりにも50年間創作発表を続けてきた自分の場所が、ブリリアントコーナーズになることを願い、個展のタイトルにしました。

私の美術リテラシーといえば、これを読んでも「『空間』がテーマなのかしら」くらい粗いインプットしかできないのである。

ところが結論、この個展を教えてくれた従姉妹には感謝することになる。
衝撃を受けた作品がいくつもあったのだ。


ここでは画像掲載を控えておくが、例えば「brilliant corners 2022」

個展タイトルと同名であり、受付の真正面に位置するその作品。説明を読まずとも、上部の凪の部分と壁面のまるで垂れた蝋のような凹凸で、自分が今いる場所が「滝」だと認識できた。
歩き進めるうちに、私はどんどん滝の中に没入していく。聞こえるはずのない滝の爆音が、水しぶきが、水蒸気が、肌にひしひしと伝わってくるようだったし、彫刻を見て持つそんな感覚が私は初めてで、とてもゾクゾクしてしまった。

他にも「Evidence」「Veil」シリーズ、「Prepared Suclptur-3 起き上がる闇」「The Rain」、ぜひ他の人にも直接見て欲しい作品が、そして私がまた見たいと思う作品がいくつもあった。

真っ直ぐなのに無機質ではない。平行なのにアンバランス。先ほどの「brilliant corners」の凪と水しぶきもそうだったように、この対比があるからこそ、そして私自身がそうであるからこそ、作品が呼吸するかのような錯覚を私は持ってしまったのかもしれないとまで思った。

アートに明るくない私がそもそもこんな感想を持つこと自体、初めてのことである。


鷲見さんの哲学

「世界はヴェールでできている」
これは鷲見さんがナイアガラの滝を見て至った彼の考えだそうだ。

「まるで世界が逆転したような爆音で落下しながらも無音のスローモーション映像の中に迷い込んでしまったかのように私はしばらく動くことができませんでした」という感想を語る彼は、その後「Veil」シリーズを次々と発表していく。

それについて画家であり批評家の松浦寿夫さんは、「brilliant corners」のカタログの中でこう解説していた。

(中略)つまり、鷲見和紀郎がヴェールという暗喩とともに提示しようと試みるのは、フィールドの非限定性、すなわち、無限性以外の何ものでもないということだ。
そして、この非限定性、無限性とは、その本性からして、作品のサイズとも、また、その物質的な次元とも無縁なものである。(中略)この無限性とは、サイズの問題ではなく、あくまでもスケールの問題なのである。

鷲見さんの最近作について彼は、「多層な領域、つまり、複数のヴェールを産出したように、複数の、そして無限性に開かれたヴェールを美しく押し拡げている」という。

そう、ヴェールは覆うものではなく、無限に開かれるものなのだ。


同時に鷲見さんはこうも書いていた。
「彫刻は『表面』、絵画は『奥行き』」

これらを読んで、私自身が普段感じている「空間」や「フィールド」は、まだまだ固定概念を保持したり現状維持をしようとしてすぐ凝り固まる。
その事実をまざまざと突きつけられているような、そんな感覚になった。



ヴェールを剥がせ

居ても立ってもいられなくなった私は、さっそく翌日、購入したカタログを持って(それもミーハー感丸出しで)鷲見さんの家を訪れた。庭仕事をしていた奥さんが私に気づいてくれて、温かく招き入れてくれた。

鷲見さんと話すのはほぼ初めてにも関わらず、私は個展の率直な感想と、そこで抱いた疑問や興味を、気の向くままぶつけ続けた。
彼はそれを嫌がるでもなく、アトリエの中の作品を見せてくれながら、ひとつひとつ丁寧に答えてくれたり、また新しく教えてくれたりもした。


「絵画はね、正面からしか見えないだろう?だから『奥行き』が必要なんだ。一方で、彫刻は『表面』だと俺は思ってる。
これを見てごらん。ただ粘土の型を取って流しただけなのに、素材の違いだけでこんなに表面が浮かび上がる」

カタログで読むよりもずっと、鷲見さんの言葉の真意が肌に伝わるようだった。



印象的な会話をした。

「作品のテーマとか、これはどんな意図があるんだとかよく聞かれるけど、俺はね、それは全部作者の言い訳だと思ってる」
「言い訳ですか?」

「そう。あれは見てくれる人に説明が必要だから、後からつぎ足すんだ。
例えばピカソのゲルニカとかもかな。受け手側が初めて『これは戦争の悲劇を語ったんだね』といったから、その作品はそうなった」
「意味づけする、ドラ・マールがいた」
「うん。初めからピカソ本人にその意図があったかどうかは分からない。
それに、文章を書くときもきっとそうだろう?例えば君が「ごうごうと」とひとこと書こうもんなら、そこから物語が勝手に広がっていく。そこからはひたすらに、いろんなものを試して試して、気付いたら完成しているに過ぎないんだ」


それを聞いて、私はまたひとつ、自分が強い「思い込み」を持っていたことに気づいた。
体系立てて文章を書く上で、メッセージ性や意図は不可欠である。それが小説だろうとエッセイだろうとインタビューだろうと、誰に何を伝えるのかが不明瞭な作品は、誰にも何も届かないと私は思い込んでいる。


創作は、もっともっと、自由なんだよ。

そう言われているような気がして、私は思わずニヤりとしてしまった。


「今度はゆっくり、お茶しにおいで」

私は温かい気持ちでその場を後にした。

余談だが、鷲見さんの連れ合い2人は私がそうでありたいと思う形でここにいる。互いを尊重し、受容し、自立した状態で一緒に過ごしている。
私のパートナーのことも、庭仕事の仕方も、アートの話も、まだまだ聞きたいことも話したいこともあるから今度は茶菓子を持って伺おう。

いろんなものを見えにくいようにヴェールで覆っていたのはきっと、案外自分だけなのだろうから。




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