Episode1 『おまじない』
午前11:30。キッチンに足を踏み入れてまず、昨日洗い忘れられた食器が放置されているシンクを見てため息を吐いた。
すばやく食洗機の電源をいれ、放置されていた食器をつっこみ洗ってもらう。うっすらと漂う腐卵臭を水で流して掻き消していった。
轟音とともに動き出した食洗機の音に、今日も労働が始まってしまったなと感じる。
いや。
ここでは労働ではなくお給仕というべきか。
あとは、と頭の中でいつもの流れを反芻しながら、フライヤーのスイッチをいれ、コーヒーマシーンやビールサーバーの組み立てをして、動作確認をすませれば大体おわり。なんとか今日もひとりでオープン作業を終えたわたしは、座るのにちょうど良い高さだったシンクの淵に腰かけて一息つく。
途端、頭上を涼やかに通り過ぎていったエアコンの風。襟の詰まったコックコートの首元に巻いていた深緑色のスカーフを軽く緩めれば、口元から長く細い息が漏れて、少しだけなにも考えずにぼんやりとする。
くすんだシルバーに囲まれた静かなキッチンは、少しだけ息がつまる。
目の前の壁にかけられている時計が12:10を指していて、開店時間の正午をすでに10分も過ぎていたことを知った。
そっとキッチンの入り口からホールの方を覗いてみると、そこにはがらんとした店内が広がっているだけで、お客さんもキャストも誰一人としていなかった。そこそこの音量で流されていた流行りのアイドルソングが耳を掠めていく。
お昼時とは言えど、平日の昼下がりは客足が伸び悩むメイド喫茶。大通りに面していても、さらりと昼食を済ませたいサラリーマンが立ち寄ってくれるようなところでもなく、主な客層である学生さんたちも今日は学校だ。
ご主人様もお嬢様もメイドちゃんすらいない、夢の国に一人ぼっち。
いつも開店直後からメイドちゃんは外へお散歩という名の客引きに出払ってしまっているから、きっと今日もすでに外にいるのだろう。
わたししかいない店内に流れ続けるアイドルソングにはもう聞き飽きてしまった。
「るんちゃん、ただいま!」
手持無沙汰にキッチンに戻り、なにか仕込めるものはないかと冷蔵庫をのぞいた瞬間、元気な声が聞こえてきて慌てて振り返る。
そこには、ホールからキッチンへ入るための一段高くなっている段差にちょうど足をかけたメイドちゃんがいた。
彼女はスカートからはみ出したショッキングピンクのふわふわパニエと、高い位置から結われた黒髪のツインテールがチャームポイントの人気メイドのどれみちゃん。
夢の国では『10歳天才』の愛称で親しまれている彼女が実は同い年だと、バックルームで打ち明けられた時はびっくりした。そんな唯一の同期でもあるどれみちゃんの黒目がちでぱっちりとした大きな瞳の上に乗せられた、淡い桃色のアイシャドウはいつも良く似合っていた。
今日も忘れられずつけられた、エプロンとぱっつん前髪の三角ゾーンをつくるためのお揃いの猫ちゃん型のピンもとても可愛らしい。
そんな彼女は綺麗なツインテールを崩さないように、そっと猫耳のカチューシャを外すと。慣れた様子でキッチンの奥へと入ってきて、調理台の前に置かれた椅子に腰かけた。どれみちゃんがふぅと一息ついたところで声をかける。
「おかえり、どれみちゃん。これから休憩にはいるの?」
「そう、ご名答! おやつって事で今日もるんちゃんにお給食を作ってもらいたいな〜」
顔の前でぱちんと手を打った可愛らしい彼女の上目遣いに、わたしは頷きつつ言葉を返す。
「かしこまり。いつも通り焼き鳥丼にする?」
「さっすが、るんちゃん! わかってるね! でも、今日は唐揚げ丼の気分かな!」
了解。と短く返して、即座に食材庫から取り出した冷凍唐揚げをフライヤーに投げ込み、タイマーを3分セットする。パチパチと氷が弾け始める音を聞いて、棚から丼ぶりを下ろし、そのまま炊飯器の元へと向かった。
「あたしさ、るんちゃんが作ってくれるお給食が一番好きなんだよね」
ふいに聞こえてきた真剣な声色に、丼ぶりに白米をよそっていた手が止まる。ホールでは絶対に出さないワントーン低い声と『あたし』なんて素の一人称に少しだけ緩んでしまった頬。
それどういう意味?と彼女に問うよりも早く
「そういえば」
なんて話を逸らされてしまって……声に出来なかった宙ぶらりんな言葉が、すこしだけ遠くで弾けるからあげの音にかき消されていく。
それからどれみちゃんとはいつものように、平日のお散歩は誰も立ち止まってくれないから精神にくるだとか、6月に履くパニエは暑苦しいとか。
キッチンにひとりで寂しくなかった? だとか、学校の中間レポートの締め切りがやばい、なんて他愛のない話をしている間にタイマーが鳴り、唐あげが揚がったことを教えてくれた。
唐揚げ用のタレではないけれど、濃い味好きなどれみちゃんのために焼き鳥用のタレをご飯に満遍なくかけ、その上に唐揚げを5つのせる。
それからちいさなハート型のお皿に彼女が好きなマヨネーズを添えれば、完成。
るん特製、どれみ唐揚げ丼
〜ハートのマヨネーズ添え〜
「召し上がれ」
なんて、調理台に腕を投げ出して待っていた彼女に差し出した。
可愛さよりも満腹感を重視するまかないを食べている事は彼女とわたしだけの秘密だった。
決して夢の国の中で暴かれることも、明かされることもない秘密。
『ピアノの国から来たどれみちゃん』しか、知らないひとたちが知る由もないひみつ。
メイド服を着ていても、わたしの前ではいつだって彼女は食べる事が大好きな一人の女の子で、今も頬を綻ばせて幸せそうに唐揚げの匂いを嗅いでいる。
「るんちゃん、今日もありがとう。とっても美味しそう! それに、マヨネーズは大盛りがいいなって、こないだ言ってたのおぼえてくれてたんだね〜!」
丼の中をかぶりつきで見つめながら、どれみちゃんは嬉しそうに頬を染め笑っていた。
「いえいえ、召し上がれ」
釣られて、わたしの頬も緩んでしまう。
キッチンであるわたしがあなたに出来ることはこれしかないのだから。
この時間が一番幸せだった。
わたしの作ったものを美味しいって声に出して、頬を緩め、本当に美味しそうに食べてくれる。メイドちゃんの彼女も、垣間見えるメイドちゃんじゃない彼女だって独り占めできるのだから。
だけど、今日はすこしだけ違った。
「ねえ、せっかくだし! るんちゃんも美味しくなっちゃうおまじない、かけてみない?」
「え、萌え萌えって? 無理無理! 本家の前でやるとか恥ずかしいし」
見たかったのに。なんてむくれながらも、差し出した箸を素直に受け取った彼女は
「いただきまーす」
と元気よく手を合わせ、嬉しそうに眉を下げてお箸で唐揚げを掴んだ。
むしろ、わたしの方がどれみちゃんにおまじないをかけられたいんだよ。
と言ったら彼女はどんな顔をするのだろう。
「んっ……! 美味しい……!」
なんて頬張りながら小さく声をあげるどれみちゃんの可愛さに免じて、今はあえてなにも言わないことにした。いや、最初から言うつもりはなかったんだけれど。
それからは、黙々と食べ続ける彼女の顔をただただ見つめた。迷わずマヨネーズがかけられた唐揚げは、次々と彼女の口の中へと運ばれていく。
次第に彼女の赤リップはとれ、かわりに油で光りだす唇。上気して紅潮した頬。首筋を伝っていく汗。
見ているだけで私の頬もじんわりと熱くなってくる。すぐにどこからともなく汗が噴き出してきて、慌てて彼女から最後の一つになった唐揚げへと目を逸らした。
「⋯⋯あ! もしかして、るんちゃんも唐揚げ一つ欲しかった?」
わたしの視線にめざとく気が付いたどれみちゃんが唐揚げに向けていた箸を一旦丼の横において、見つめてくる。
「え、違う違う! ちがうよ」
慌てて純粋な瞳を向けてくる彼女に首と手を振って、否定の意を伝えてみても。
「いらないの? 今ならどれみのおまじない付きなのに」
なんて大きな黒目で繰り出された上目遣いのあざとさに負けて、頷くしかなかった。
わたしの頷きを見て、満足げに目を細めたどれみちゃんに
「準備はいい?」
と問われて、思わずその場に姿勢を正した。
それじゃあ、と前置きをした彼女が胸の前で作ったハートをゆっくりと左右に振り始める。
「美味しくな~れ! 萌え・萌え・きゅるる~ん♡ どれみのお歌の魔法もかかって、るんちゃんの唐揚げがとっても美味しくなりました!」
振り終わったハートを最後目の前に突きつけられ、あまりの可愛さの暴力に倒れそうになったわたしの口元に近付いてきたのは、唐揚げをのせた箸。
小さくそっと口を開け、どれみちゃんからの
唐揚げを迎え入れてみれば。一度噛んだだけなのに、さくさくの衣の奥から溢れ出した肉汁が口の中いっぱいに幸せを運んできた。
マヨネーズにやさしく包み込まれた、きっと世界で一番美味しい唐揚げ。
「ねえ、るんちゃん。美味しい? なんだか幸せな味がするよね!」
口を開けば、やっとかけてもらえたおまじないが、もらった幸せが消えていってしまいそうで、声を出さずに何度も頷いた。
彼女は誰のものでもない。不特定多数のご主人様とお嬢様に魔法をかけるメイドちゃんで……わたしがあなたのお嬢様になることはできないのだから。
彼女たちの魔法を具現化するために料理を作っているわたしの気持ちなんて、知らないままでいいと思っていた。
なのに、間接キスも気にせずに同じ箸で唐揚げのなくなった丼のごはんを食べ続ける彼女を見ていると、ふいに全てを吐き出してしまいたくなる。
どれみちゃんを無性に困らせたくなるような気持ちを必死に飲み込み、彼女の頬についていた米粒を指先で捕まえた。
米粒をぬぐった熱くてこそばゆい指先ごと口にふくみ、不思議そうに首を傾げた彼女の顔を見ることも出来ずに
「間接キス、みたいだね」
軽く笑いながら返す。
それからどう返事をされたのかは覚えていない。いや、返事すら返ってこなかったのかもしれない。
ただその時、カッと熱くなった頬とともに幸せを掻き消すほどに指先から塩辛い味がしたことだけは忘れられなかった。