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文学部はなぜ就職できない(と思われている)のか?

就職できない、ということはない。だって、大学の哲学科や日本文学科で教えている先生は、大概、文学部の出身だから。しかもかれらは文学部のさらに大学院まで行っている(終えている)。そして大学に、教員として就職している。だから就職できない、ということはない。それは言い過ぎだ。

人は皆、自分の進んだ道を肯定したがる。そのほうが具合が悪くないからである。だから文学部出身のひとは文学部を勧めることが多いだろうし、文学部以外の出身のひとは文学部を勧めないことが多いだろう。

文学部をやたらと貶すひともいる。そういうひとは多分何か文学部に勘違いをしているか、文学部に行きたくてもさまざまな理由によって行けなかったひとなのだろうと私は思っている。

私も文学部のひとである。だから、文学部を肯定する。しかし文学部に入ってみて、文学部に入ると就職ができなくなる、というやや乱暴な言い方のどこが乱暴なのかについて気付いたような気がする。だから今日は、どこが乱暴なのかについて話してみたい。

どこが乱暴なのか。第一に、文学部に入っても就職はできる。第二に、文学部に入ったから就職ができなくなるのではない。正しいのは、文学部に入るという選択をしている時点で、あなたは就職ができないかもしれないということだ。「就職」というと語弊があるから、「普通の就職」とでも言っておこうか。大切なのは、文学部に入るという選択、文学部に入ろうとする気持ちである。経済学部、法学部、社会学部、色々あるが、そんな中でも文学部なのである。

まず前提として、文学部を選択するひとには、そもそも「未来」や「成長」という言葉に吐き気を催すようなひとが多い。もちろん、推薦入学の枠をつかみ取ってあとからそれが「文学部」であることに気付いたひとなどはその限りではない。「未来」や「成長」という文字が胸いっぱいにあるかもしれない。しかしあなたが選択したのは文学部なのである。

そして、振り返ったときには、すでにあなたはかなり遠ざかったところにいるだろう。何から遠ざかったところだろうか、「未来」「成長」「恋愛」「娯楽」、、、? 振り返る前は分からないのだ。私もそうだった。振り返るまでは渾然としていた。でも振り返ったときに、渾然としていたはずの風景ははっきりと色を帯びてしまっている。そして遠くに見える色と自らを取り囲む色が違うことに気がつくのだ。

人型のロボットがいて、文学部という工場に入れられ、そして就職できなくなる体になってしまうのではないのだ。境界はいつだって曖昧なのだ。


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