暇な大学生が辻村深月の「傲慢と善良」を読んでみた
最近話題であった「傲慢と善良」読んでみました。
書店で購入したときは、分厚くて最後まで読めるか心配でしたが、気づいたら一日経たず読み終わっていました。そのくらい、引き込まれる小説です。
読み始めると、おそらく「傲慢と善良」というタイトルの意味を探りながら読み進めていくことになるのですが、徐々に明かされ始めます。
主人公と重ねながら、必ず自分自身を振り返ることになります。
私自身は、「善良さ」よりも「傲慢さ」について考えました。
ここで言う「傲慢さ」は、「人を見下している」ことと同じだと思います。誰かの価値を自分の中で見積もって、それで相手を見下していないか?
自分の価値は高く見積もり、他人のことは低く評価しようとする醜さを客観的に認識します。
「なかなか婚活が成功しない人は、自分のことを実際よりも価値があると思っている」というような台詞がありました。逆に、「婚活が上手くいく人は自分の価値を低く見積もり、相手の価値を高く見積もる」という趣旨の台詞もありました。
婚活が成功しない人は、実際以上に「プライドが高い」ということだと思うのですが、これは婚活に限った話ではなさそう。
友達でも職場でも、人間関係を築く上で「相手の欠点を探す」人と、「相手の良いところを見つける」人がいると思います。
どちらが人間関係が上手くいくか、楽しめるかを想像すると後者であるのは明らかです。
減点方式で相手を評価する人は、自分と見合う(と思える)人でないと対等な関係を築こうと思えず、その結果、人間関係が狭く薄く、だんだん孤独になっていくのではないか。
そもそも、人間に「価値の違い」なんてものは無いのでは?
全員何の価値もなく、または全員に同様の価値がある。相手と自分とでその価格が異なると考えること自体が、愚かなことではないか。
長所と短所を足し引きしたら結局は皆同じで、「みんな違ってみんな良い」、同様に、「みんな違ってみんなだめ」なのではないか。
単純に相性の良し悪しがあるだけなのに、人間的な価格を見定めようとすることの醜さを痛感しました。
「この友達は自分にふさわしいか」「この恋人は自分と釣り合っているか」人は無意識に、相手を査定している。それをやめられない人間の愚かさ。
その感覚が鋭く言語化され、読まされるときの驚きと鮮明さ、少しのしんどさ。
自分自身の醜さとも対峙せざるを得ない、そんな小説でした。
あと、私も婚活とか、するのかなぁ。ちょっとしんどそうだなぁ。。って思いました。おわり。