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漆(Japan)

漆(うるし)。ここ、「漆器」の産地である木曽平沢に来た日。
漆器をまじまじと見つめた。
正直、「素朴だな」と思った。

はじめはただの赤、黒にしか見えなかった器が、今は違う。
肌に触れる時の漆の柔らかさ。
光を吸収し、模様にかえる艶。

漆の工房や職人が傍にいるこの環境で、漆について知った。
職人に話を聞き、工房や資料館に行き、そして漆器に触れた。

あなたは漆器についてどう思うか?
私はどう感じるか?

知るうちに、漆はとても魅力的だと思うようになった。
私が得た知識と感性をここに残す。


研究方法
今回私の中で漆についてのフィールドワークだと考えていた。
調査方法を残す。
【工房見学したところ】
斎藤漆器店(奈良井宿)
丸嘉小坂漆器店
伊藤寛司商店
うるし工房 石本玉水
小坂進うるし工房
深井蒔絵工房

工房に行き、技法を見学したり、時にはお話を聞いたり、実際に漆を塗らせてもらった。

【本】
「なぜ、日本はジャパンと呼ばれたか」 著者 中室勝郎の本
「木曽の100年」 監修 田中 博

【その他】
木曽漆器館
木曽くらしの工芸館
講演 若手漆器職人と考える木曽漆器のカタチ(2024 5/25)えんぱーくにて

第1章 縄文時代と漆


漆の出土がどこからの伝来なのか、もしくは複数の土地で生まれたのかは明らかではないが、世界で最も古い漆芸品の出土は日本である。北海道で、約9000年前(縄文時代)の副葬品に赤い漆が塗られていた。


漆器の本質を探るためにその始原となる縄文についてまとめる。
縄文時代は今から13000年~2300年前まで続き、1万年続いたにも拘わらず、戦争の形成が一切ない。信州は縄文人が最後まで残った土地と言われる。黒曜石に富み、「縄文のビーナス」「仮面の女神」で知られる国宝土偶も長野の博物館にある。
縄文人はどんな民族であるのか。

感謝の民族
縄文人にとって食料は狩猟、採集であった。自然とともに、自然に生かされていることを理解し、生きていた。恩恵をもたらす自然に、感謝の念が生まれ、やがて感謝は自然への崇拝につながり、自然崇拝が生まれるのは納得がいく。
土器の発明により、煮炊きが調理法として定着すると、狩りなどの餓えから解放され、長く続いた旅は終わり、縄文人は村をつくり、周辺の植物で食を賄った。春から夏はワラビなどの山菜、秋はドングリなどの木の実、サケ、マスなどの魚、冬はシカ、イノシシなどそれぞれの季節に応じた。

食を自然の恵みと考えた縄文人は、移ろう季節に敏感になり、時に猛威を振るう自然に大いなる力の存在を感じた。すべてのものに霊魂が宿るとした考えは「八百万の神」という考えとして今もある。人のつくるものにもすぐに魂が宿ると考え、米に頼ることなく、500種を超える食材を利用し生活していた。

弥生時代早期に農耕が始まり、農耕による収穫に差が生まれ、競争原理と格差が生まれた。道具が画一されていき、機能性を重視した簡素的なデザインの土器になっていく。縄文土器のデザイン性に溢れた土器に比べると質素である。縄文時代には生活の中に、今でいう芸術が溶け込んでいた。

言語学者のバジル、チェンバレン(1850‐1935)は日本にアートに値する言葉がないことに気づく。日本には暮らしの中にアートがあり、概念として認識する必要性がなかったのだろう。同時にネイチャーという言葉もなかった。アート同様に自然もあまりに生活の中に融合していたからだ。自然を意識するのは明治以降であり、それまで自然をジネンと呼び、ありのままという意味で使っていた。

「なぜ、日本はジャパンと呼ばれたか」という中室勝郎の本より引用

概念というのはつまり、自我から独立することで生まれる。
芸術という概念が、自然という概念がなかったほどに、自分自身と繋がっている考え。私たちの祖先は自然に溶け込んでいた民であり、特に意識しなかったという自然観が読み取れる。

縄文時代の漆
縄文遺跡から、この時代に社会組織があり、分業が成り立っていたこと、遺伝子分析により食料を栽培し、計画的に食料を確保する習慣が存在していたことが分かった。漆は接着剤や塗料として使われ、縄文時代前期には、広く集落の周辺で漆の木を栽培していたことも明らかになっている。漆を漆芸に使うには漆による「かぶれ」や、器に塗るためには多くの工程を経る必要があり、縄文の漆芸のレベルの高さがうかがえる。

感性
縄文時代の人にとって漆はどんな存在だったのか。
遺跡からも接着剤などの実用的な側面だけでなく、塗料として芸術や嗜好としての漆が見えてくる。手間やリスクがありながらも漆を使う価値を見出していたのだろう。どんな感性で漆をとらえていたのか、9000年の時を超え、思いを馳せてみる。


第2章 漆がJapanと呼ばれた16世紀

陶磁器が発祥の地である「China」と呼ばれるように、漆器はかつて「Japan」と言われていた。

鎌倉時代(12世紀)に漆器が大衆化する。それまで丁寧に漆下地を重ねていたものが柿渋下地が代用され、漆にも油を入れ増量するなどの工法が開発されることで大量に生産できるようになった。日本人の食器の大部分が土器にかわり、漆になった。漆器はすべての階級で日常の食器として使われていた。16世期、大航海時代で西洋人が来て、漆器に魅了された。漆の木がなかった西洋では日本の漆で「漆黒」を知り、衝撃を受けた。「Japan」と呼んだのは単なる「もの」ではなく、日本人の生活の一部であり、漆器が精神に深くかかわっていることに加えて、漆黒が日本の象徴と思うほど漆の色に魅了されたからだと考える。

第3章 漆とは


漆の語源は「麗し(うるわし)」「潤し(うるおし)」
それほど美的な感性に触れるのだ。

漆とはウルシノキからとれる樹液である。私はこの事実を木曽平沢に来て知った。漆の木は日本、中国、朝鮮、ベトナムなどのアジア圏にのみ生息している。1本の木からとれる漆は200gのみ。1本の木が成長するまで10年~15年がかかり、日をつめて削ると枯れるため、5日ほど間隔をあけながら、5~6か月かけて取り出す(日本のやり方では)。それほどに丁寧に、手間をかけて、木から分けてもらう。ちなみに四季によって漆の性質が変わる。

樹液は木の血液である。
樹液は木が、動物の牙などによる傷の感染を防ぐために出る。まさに人間の血液と同じだ。漆は樹液であり、木の血液である。自然とともに生きている日本人の心でみれば、木の血液の結晶である漆に対して深みや慈しみの心が増す。

成分
漆の主成分はウルシオールである。対して東南アジアに分布する北ベトナム、台湾の漆の主成分はラッコ―ルであり、カンボジア、タイ、南ベトナム、ミャンマーはチチオールである。日本の漆の木は九州から北海道まで生息する落葉高木。日本の漆の成分はウルシオール60-65%、ゴム質5-6%、含窒素物2-5%、水20-30%、酵素0.2%である。それぞれの国によって成分の種類や割合が異なる。
特に日本の漆は最も上質だといわれる。それは主成分であるウルシオールの割合が高いためである。ただ国内産は非常に希少で現在の自給率は1割にも満たない。9割が中国産である。原因は価格によるところが強く漆器職人さんによると7~8倍の差があるそうだ。ちなみにその1割の7~8割が岩手県に集中している。

漆の工程は一人の職人が行うのではなく、何人もの職人が関わる。木曽漆器の場合、下地、中塗り、上塗り、蒔絵、沈金などに分かれている。

一般的に乾くといえば水分や有機溶剤の揮発によるが、漆は水分を取り入れて固まる。適当な湿度(65~80%)と温度(20~30℃)が必要であり、加湿しながら作業をしている。


第4章 木曽漆器の歴史

ここ、長野県の木曽平沢奈良井宿の在郷として漆器の生産、檜物細工(ひもの)の産地として生計を立ててきた。この地の歴史をたどる。
※檜物細工 檜(ひのき)・杉などの薄板を曲げて細工物を作ること

漆器のはじまり
戦国時代が終わり、安土桃山時代になる頃、お城や神社仏閣の建築のために木材が枯渇し、かつて木曽を治めていた尾張藩(徳川御三家)が木材の自由用途に規制をかけた。基礎は山間部であり、耕地面積が少なかったため林業で生計を立てていた。尾張藩は漆の一部を分け与え、なにか工芸品をつくれと提案。材料不足の中、少ない木材で工芸品をつくるためにはどうしたらよいか?
考えた村人は曲げ物をつくり始めた。曲げ物は薄く、少量の木材で作ることが出来たからだ。そして曲げ物産業に伴い水に強く、耐久性をあげるために、漆塗りが施されていった。

※木曽の木材は伊勢神宮に使われるほど良質である。それは寒い気候と栄養分が少ない土壌のため目が詰まった木になるからだ。


木曽は中山道沿いであったため平民を対象にした漆器を扱う。江戸時代、中山道(江戸時代に江戸と京都を結んだ主要道路)では多くの旅人がいた。あの時代移動が出来たのは武士と商人だけだった。陶器は重いが漆器は木であり軽い。そのため持ち運ぶのに適していた。木曽平沢の産業が発達したのは林業しかできなかった環境、豊かな木材と中山道があったことが大きい。

漆器産地としての振興

全国のあちこちに漆器の産地はあったが、木曽漆器が栄えたのは明治の初めごろ、傍にある宿場町、奈良井宿で発見された「錆土(さびつち)」の存在である。これを漆と混ぜることにより堅牢で丈夫な製品を作ることが出来(本堅地塗り)、旅館などの業務用の漆器として普及していった。高度経済成長(1955年~1972年)、バブル時代の到来により業務用の漆器がテーブル、家具などの大物になり、基礎の漆器産業が最も栄えた時期。そのため室(ムロ)という漆器を乾かす蔵の大きさも、木曽平沢は大きい。業務用であったため、個人消費者への認知は低く、輪島漆器のようなネーミングが広がらなかった。


錆土により堅牢になった木曽漆器



大量生産、消費の社会がもたらしたもの
戦後の復興期の後、日本は高度成長期(1950 年代中頃~1970 年代初め)を迎える。景気がよく、漆器製品も飛ぶように売れ、現在では飲食店もない木曽平沢であるが、当時は飲食店、パチンコ屋など小都市としてにぎわっていた。
技術革新と大量生産により市場には新しい商品が次々と現れ、天然の素材の物に代わり、プラスチックなどの合成樹脂や合成繊維(ナイロン、ポリエステル)が流通し、消費社会が到来した。

1990年、バブル崩壊。大物製品が売れなくなり、プラスチックよりも値がはる漆器は売れなくなった。職人の数も半分以下に減った。安くつくるためには原材を変え、工程を省略し、発展途上国で安く作り輸入するなど、漆芸の質を落として対処せざる負えなくなる。

ここまで読んできた人はわかると思うが、漆の希少性、人の手間、工程を何度も行うことを考えたら、安い漆器(1000円など)など作れるわけがない。安いということは省いたり、どこかに搾取があったり、人工物を混ぜていたり、質が下がっているのだ。

漆器は単なる「モノ」ではない。
自然と人がともに作り上げる結晶である。


第5章 私から見た漆の魅力

感覚で味わう漆黒
漆黒とは漆の黒が由来。非常に深く光を反射せず吸収する、深みのある艶やかな黒である。これは、黒にするために黒の含量を混ぜるのではなく、鉄粉を入れ化学反応を起こし黒に近いグレーになる。
通常顔料を入れたものと異なり、半透明な黒を塗り重ねることにより、深くて美しい黒になる。黒にするために黒の顔料を混ぜるのではなく、鉄粉を入れ、化学反応を起こすことで黒に近い色にし、そのあと鉄粉をとる。


高機能
漆器は電子レンジが使えない、観賞用のもの、扱いにくいもの、というイメージがあった。しかし、実は機能的にも優れている。電気絶縁性といって静電気を起こさず、熱いものも熱を通さない断熱性がある。抗菌性に富んでおり、お弁当箱などに適している。接着力もあり、自然の中では蜂の巣に使われている、公害のない自然に優しい塗料である。


生きている漆 
「モノは使い捨て」そんな感覚があるが、本当の漆は異なる。
使えば使うほど艶が増し、漆がはげると漆を塗りなおすことで、再生するだけでなく、強度があがる。驚いたことに、使わないとくすんでいく。実際に資料館で何年も使われていない漆器は艶がなく、くすんでいた。使えばその分劣化していくプラスチックに対し、漆は使うほどに磨かれていく不思議な素材だ。まさに生きている。使えば使うほどに愛しくなるだろう。

使うほどに艶が増す
なぜ漆の艶があがるのか?
理由の一つは、使うことで手で磨かれるからだ。自然の研磨である。
また、漆は乾くのに1年以上かかる。漆は乾くことで透け感が上がり、透明になっていく。また、光にあたることで彩度があがっていくと職人さんが教えてくれた。


自然から生まれ、自然に還る
漆器は木材でできた木に漆を塗り重ねていく。言い換えれば木とそれ自身の血液で完結する。天然樹脂である漆は紫外線で分解されるため、太陽のもとにおいておけば自然に還っていく。
天然素材ゆえの手にした時の木材の柔らかさ、なつかしさ。
それに触れたら、自然と愛でたくなる。そんな心を私たちは生まれながらに持っていると思う。漆は食事の際に、自然の命と私たちがつながっているということに気づかせてくれる。

第6章 価値があることに気づく感性


漆器作家の方が言っていた。

「同じ漆のお椀を何十年もつかってるけど飽きない。漆が変化していく、生きているから」

「今日は森がピンク色に染まってるね。葉が空の色を吸収してるね」

私は思った。きっと同じ漆を目の前にしていても、感じていることが全然違うんだろう。感性の深さが違うと。

漆の知識を得ることで、大切に使おうと思う人もいるだろう。
けれど「知る」にはハードルがある。時間も、やる気も必要になってくる。
働くことで心に余裕がなくなっている友人に、そんな余裕はない。

知識じゃなくても、「惹かれる」そんな純粋な、感性に届く漆の良さがある。それは単に漆について知るだけでは身につかない。
感性を育てる必要性を感じた。

考えた。どうしたら感性が育つのだろう。

本当に価値のあるものに触れること。

漆を通して、自然から生まれ、出来上がる流れを知った。
「飽きたから捨てる」本当に価値のあるものは、変化を楽しむことが出来る。変化する姿が愛しく、美しいのだ。
そんな風に感じる心を育てなければ。

安く、手間がかかっていないものを買う。
そこには愛着も生まれず、ただのモノでしかない。
そんな大量生産、大量消費の時代は終わりを迎えようとしている。

自然だけでなく、私たち人の心も疲弊している。つながっている。

育んでいこう。

感じる心を。

今年日本を見て回る中で、これが一つのテーマである、そんな確信が芽生えた。


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