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【小説】陽だまりはそこにいた#3

前回


***

in Spain

 地中海を越えて吹く乾いた風が心地よく額の髪を翻す。

 容赦ない陽射しは「これぞ情熱の国」といった様子で照りつけるが、湿気が少なく日本よりは幾分過ごしやすい。体の内側からぽかぽかと暖められて、私が無邪気な子どもだったらそこら辺を思い切り駆けまわっていただろう。

 「なんで俺に声をかけたの?」

 少し先を歩く彼は肩越しに私に尋ねる。

 朝食というには遅すぎるのんびりした食事を終えて、私たちはどこを目指すでもなくトレドの街中を彷徨っている。

 私にはさっぱり道がわからないから、前を歩いてくれるこの青年を頼りに勝手にふらふらしているともいう。

 どこまでも続く細長い路地と淡いクリーム色の街並みを目でなぞりながら、「どうして彼に声をかけたのか」、その質問の答えを考えてみるけれど何も浮かばない。なんとなく、というのも本当のところは違う。

 うわのそらの私に答えさせる気も特にないようで、彼はまた続ける。

 「じゃあ何でトレドに?」

 「あ、絵が見たくて……」

 「なるほど。お目当てはサンタ・ルクス美術館?」

 「えっと、そっちには行ってない。よく調べてなくて……」

 溜まった有給をこの期間に消化するように、とのお達しが来たのは先月のこと。

 突然忙殺された日常から放り出され何もない自分を目の前にした時、エル・グレコの絵を生で見てみたいなと思った。

 高校の世界史の資料集で見た彼の吸い込むような黒とくっきりとした色彩が妙に好きだった。他の芸術家たちの名前は受験が終わったら全部忘れたけれど、「エルグレコ」の五文字は二十代半ばに差し掛かっても忘れはしなかった。

 一生に一度はこの目で見てみたい、なんて熱烈な思い入れはなかったけれど、目の前の空白にぽかんとそれが浮かんだ時に特に止める理由もなかった。

 一人で、あってもなくてもいい数日を過ごすくらいなら東京から逃げ出してどこへでも行ってしまいたい気持ちだった。

 勢いに身を任せ、計画性というものを一切合切投げ捨ててここへ来た。

 「エル・グレコの絵」を見にきたのだからとりあえず「エル・グレコ美術館」にだけは行こうと決めた。トレド駅から車で十分らしいが、よくわからないので昨日はマップを見ながら一時間半ほど迷路の街を歩いた。

 辿り着いた美術館は私を除いては杖をついた年配の男性と初老の夫婦しかいない静かで小さな空間だった。

 トレドの街を天から一望した絵画や『十二使徒』の連作が静謐に威儀を正して並ぶ。一変、感情のままに輝いているのは『聖ペドロの涙』。優しい光が照らす透明な涙は暗いペドロの後悔を淡く柔らかく包み込む。

 その滑らかな質感は資料集では教えてもらえない美しさだった。

 絵は十分過ぎるほど堪能したし、そもそも古都トレドの街並みは歩いているだけで美術館のようなもの。もはや昨日のうちにやり残したことは無くなったような気がした。

 「行かないの? おすすめだよ、サンタ・ルクス美術館。絵、まだあるよ」

 歩みを止めて彼が振り返る。にかっと笑う顔が元気で、太陽みたいな男だなと思った。

 一度は絵を見ることができたという充実感のおかげでやる気も目的もどこかへ行ってしまっていたわけだが、元よりどうとでもなれ精神で来たのだ。暇だから俺も行くとエネルギッシュに笑う彼に案内を頼み、入り組んだ街をさらに歩く。

 歩きながら彼はよく話した。

 大人びた見た目に反してとても無邪気で人懐っこい口ぶりで。しょっちゅう話しかけられるから街ゆく人も観光客もみんな友達になるんだと彼は得意げに話してくれた。

 「この前もさ、日本人と仲良くなったよ。あいつは最高にかっこいい男だった……!」

 自分の生き方のためなら怖いもの知らずなんだ……、と目を輝かせる姿は青年というより少年の方が相応しいのかもしれない。

 女の子で声をかけてくる日本人は初めてだからびっくりしたと言う。危ないよ? と少し笑われた。

 そんな助言はふらっと聞き流し、私も私で慣れない言語を織り交ぜつつ気ままに話す。向こうが慣れていることが大きいようだが、会話というのはお互い何となく話していても思った以上に成立するものだと今朝から二人で過ごしてみてわかってきた。

 色々な話をした。

 最近通った道の花壇の花が何なのか気になるというから、一緒に通って「それは苺の花だよ」と教えてあげたら非常に喜んでくれた。

 何で知ってるの、すごいねと何度も褒めてくれるから昔友人が育てていただけとスカして返した。

 さあ美術館に着くぞという時、彼はもう一度私に尋ねた。

 「何で俺に声をかけたの?」

 死にたい気分だったから、と答えるのはやめておいた。

 何にもなくて、会いたい人もいなくて、ずっと心に留めていた絵も見てしまって。

 すごく自由でこのまま死んでしまいたい気分だったから。私の知らない適当な誰かが何もかもめちゃくちゃにしてくれないかなと思ったから。

 だから君に声をかけたのかもしれなかった。

 「なんでかな。太陽が眩しかったから?」

 「え、うまいこと言ったと思ってる?」

 うん、言えてない。さすがにそこまでは深刻ではない。ここはスペインだし。

 そういえば、彼に話しかけた公園には他にも人がいたはずだった。その中で私はどうして彼を選んだ? 一人きりで、歩く理由も止まる理由も特になくて。言葉にするには覚束ない空虚さだけが広がっていて。

 「君、俺に日本語で話しかけたでしょ」

 飛び出した言葉が予想外で一瞬思考が停止する。その後すぐに記憶がきゅるきゅると巡り今朝の映像まで巻き戻る。

 そうだったか。確かにそうだ。

 脳内で再生される朝の風景に青年が映り込む。

 「こんなところでさ、日本語で話しかけてくるから。言葉が通じるってわかってて、なんか聞いてほしいこととかあったのかなって」

 聞いてほしいこと。そんな何かがあっただろうか。私は何か話したくて、吐き出したくて、彼に声をかけたのか。そんなこと、自分にもよくわからなかった。

 言われてみれば、ここまでこの男はとても器用にスペイン語と英語と日本語を使いこなして話してくれている。ありがたい限りだ。

 母親が日本人、というのはカフェに寄る前にもう聞いていた。力になるよ、安心してねの合図だったらしい。

 なんで日本語通じるってわかったのと彼が問う。

 どうしてだろう。記憶がぐるぐる巡る。

 だんだんベンチに腰掛けた青年にフォーカスが合っていく━━。

 「あ、思い出した」

 驚くほどくだらなくて口元が緩む。馬鹿みたいな理由。でも、彼はもしかすると少し気にしているかもしれない。あまり言いたくなかったがあまりにしつこいので教えてあげることにした。

 「スペイン人にしては顔の彫りがちょっと薄くて、ベンチで納豆食べてたからだよ」

続く

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