「考えすぎだよ」の言葉に甘えていたことに気付いたINTJの話
「考えすぎだよ」と言われることが多い。
「これは言うべきじゃなかったな」とか
「あの言い方は良くなかったな」とか
1人で反省して、後から相手に謝ることが私はよくあるのだが、相手はだいたい
「え?何のこと?」とか
「そんな風には思わなかったよ。考えすぎだって!」
とあまり気に留めていないことが多い。
私の想定よりも、他人の言葉や発言の一つ一つを重く受け止めない人が多いのだなと思う。むしろ、私が他人の言動の一つ一つを神経質に捉えすぎ。それが故に余計なストレスを溜めているのだとも言える。
私の言いたいことが本質的に理解されていないなとは感じるが、これは既に私の中では普通のことで、特に不満は感じていない。
ただの自己満足だが、自分の言動を定期的に省みて、良くない部分があれば謝ることが出来ればそれで良かった。
しかし、ついに私は出会ってしまった。
自分と思考回路が似ている人間に。
「そうだね。初めに【A】って言ってくれてたら良かったかもね。後から凛ちゃんの【B】って言葉でそういう意図なんだなって理解したけど」
「考えすぎだよ」と言われない。
という経験を、私は初めてした。
これまでの記事でもたびたび登場しているが、彼は過去に私がお付き合いをしていたことのあるINFJ男性。
彼とは思想は違うことが多いが、思考回路はかなり似ていた。
だから、私が1人で反省して後から謝った場合、彼もまた同じように考えているので「そうだね」という肯定になるのだ。「考えすぎだよ」とは絶対に言わない。
お互いの思考回路が分かる、理解し合える。
そんな人間に出会えたことがなかったので、何て素晴らしいことなんだと出会ったばかりの頃は感動することが多かった。
一方で、いつもなら「考えすぎだよ」と言われる場面で、「そうだね」と穏やかに彼に肯定された瞬間、私はとても苦しい気持ちになったのだ。
それは何故か。
私は知らず知らずのうちに、他人からの「考えすぎだよ」という言葉に甘えていたから。
人間というのはとても身勝手な生き物だ。
自分の非を自分で認めるのは容易くても、他人に自分の非を改めて指摘されると苦しい。
私は他人からの「考えすぎだよ」の言葉を受けて、
「やっぱり他人とは理解し合えない」
という悲観的なポーズをとりながら、実は気持ち的には救われていた。
救われていた、と言うと聞こえが良すぎる。
やはり、甘えていたという表現が正しいと思う。
自分で自分の非を認めて謝ってはいるが、実際、他人からはその非を咎められない。他人から責められないというのは、とても気持ちが楽なのだ。
その楽な状況に慣れていた私の胸に、彼からの「そうだね」という言葉は深く突き刺さった。
さらに、「こうすれば良かったね」という彼から提示される完璧な改善策もかなり耳が痛かった。
いや、これが本来のあるべき姿なのだ。
あくまで、非があるのは私なので。
私は他人と本質的に理解し合えないことが多く、それが苦しいと思っていた。いや、過去形ではなく今も思ってはいるが。
しかし、本質的に理解し合えていないが故に気持ち的に救われていたこともあったのだなと今回気が付いた。
本質的に理解し合えて、自分の非を指摘してくれて、改善策も提示してくれる彼の存在は本当に大切だった。
一方で、それ以外の他人と理解し合えていないからこそ、自分の気持ちが楽になっていることもあると把握しておくことは大切だと思った。
理想は彼のような人間以外からも、ちゃんと自分の非を咎められた上で反省した方がいいのかもしれない。
本来、それが当然の報い?なのかもしれない。
しかし、実際にそうなるとたぶん私は今以上に生きるのが苦しかったと思うのだ。
自分で自分を責め、他人からも責められる。
それは自分が悪いのだから当然のことだとしても、苦しいものは苦しい。
私は結果的に他人に楽をさせてもらっている。
だから、「他人と理解し合えない」とただひたすら被害者ぶるのは滑稽だろう。
そう思いながら、今日も他人と接する。
他人からの無配慮な言動に傷つきイラつく。
………………。
やっぱり他人と理解し合えない。
結局、気が付いたら全力で被害者面をしているのだからどうしようもないな笑