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短編小説:ルナ



満月の夜だった。


一年の中でも今日の満月は特別で世間では「中秋の名月」と呼ばれ、古くから人々に親しまれているらしい。私は木々の間から零れる月明かりを頼りに森の中を独り歩いていた。どうしてここにいるのか、どこに向かっているのかもわからない。でも音を立てて吹き抜ける風が私の心細さと共鳴すると、より一層冷たく感じ、どこか安全な場所に避難しなければという気持ちにさせる。どれくらい歩き続けたのだろうか。さすがに疲れを感じ、近くの木の幹に体を預けるように座り、大きく深呼吸をした。

ふと見上げると木の葉の隙間から月が見えた。月はこんなにも明るいけれど、自分の力で光っているわけではなくて太陽の光が反射しているだけだと聞いたことがある。
満ち足りた存在のように見えても太陽にだけは決して敵わない。そう思うと、完璧なのに決定的な何かが足りない様子がどこか物悲しくて、私は仲間を得たような気分になった。さっきの場所で眠ってしまっても良かったが、今になって目が冴えてしまったのでもう少し歩くことにした。

すると、どこからか音が聞こえてきた。ピアノの音だった。ゆっくりとした穏やかなテンポで切なさや神秘を感じさせるような曲が聞こえてきた。
前にどこかで聞いたことのあるような気がするが、はっきりとは思い出せない。私は正体が気になって音の方向に向かって歩き始めた。
少し歩くと、そこには古い洋館があった。月明かりに照らされて、建物自体がぼんやりと白く発光しているように見えた。しかし、びっしりと蔦が這う壁の木材は朽ちていて、窓ガラスは蜘蛛の巣や汚れでくもっている。
もう長く誰も住んでいないのだろう。しかし、あのピアノの音はこの建物の上の階から聞こえてくる。この矛盾には気づかないふりをして、私は興味のままに割れた窓から中へ忍び込んだ。息を潜めて階段を上ると、ついに音のする部屋に辿り着いた。ドアの隙間からは月明かりが漏れている。部屋の前に立つと鼓動が次第に早くなって腕に力が入らない。
それでも私は意を決してドアを押した。

ドアの軋む大きな音が洋館中に響き渡る。ピアノの音もピタリと止んだ。あまりの静寂に息も忘れ硬直していると、部屋の中から足音が聞こえた。
そしてドアが開いた。恐る恐る顔を上げると、そこには20代前半くらいの青年が立っていた。彼の顔は美しく、月明かりを背に受けて青く透き通るようにも見えた。
「なんだ、びっくりした。もしかして迷い込んじゃったのかな?  ほら、こっちおいで」
彼は甘く微笑んで、私の頭を大きな手で撫でた。そして私を部屋の中へと招き入れた。後からついてくる私の姿を確認し、ピアノの前の椅子に腰掛けた。彼は自身の膝の上を軽くたたいて、ここにおいでと合図をするが、流石に初対面でその距離感は近すぎる。私は近くにあったテーブルに座った。

「君、名前は?……ルナって言うんだ、素敵な名前だね」
ルナ。懐かしい響きだ。私はこの言葉をよく知っている。頭の中で反芻していると、だんだんと思い出してきた。ルナは私の名前だ。
鮮やかで清らかな漆黒と満月のような金色の瞳が美しいからとルナと名付けられた。昔の記憶に少しだけ胸が温かくなる。
彼は私の様子をしばらく観察すると満足したのか、再びピアノを弾き始めた。私をここへ導いたあの曲だ。私が大好きだった曲。昔、一緒に暮らしていた青年がよく弾いていた曲で題名は『月の光』。私は彼の演奏を聴きながら窓辺で陽にあたりながらウトウトするのがお気に入りだった。愛おしい記憶に自然と記憶が蘇る。曲が終わる頃に私は全てを思い出した。そして後悔していた。こんなに幸せな記憶なんて思い出したくなかった。じゃないと離れがたくなってしまう。

私は自分の全てが大好きだった。それを失うのが怖くて、寂しくて、わざと知らない森に迷い込み、記憶に蓋をした。それなのに、ここに来て思い出してしまった。顔を隠し、耳を塞ぎ、体を小さく丸めて恐怖に震えていると彼の手が私の背中を優しくさすった。
「ごめんね。ピアノの音、驚かせちゃったかな。でも大丈夫だよ。怖がらないで。僕がずっと一緒だから」
彼の手は、私の家族の誰の手よりもずっとずっと冷たかった。それでも、一定のリズムで撫でるその撫で方は私の家族の撫で方と似ていて安心する。そっと目を開けると彼の微笑みの奥にあの満月が見えた。穏やかな光景と最期の夜に満足して、私は深い眠りに落ちた。
「おやすみなさい。黒猫のルナ」



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