第六感
やっぱりやめておけばよかった。
そう思う時がある。
私の第六感は結構役に立つ。
けれど時々そのセンサーがはたらかない時がある。
自分の直感を妄信してしまうから私を含めた多くの人は、“避けられた失敗”を思い返して
引きずるのだ。
どうしたらこの第六感がここぞという時にはたらいてくれるんだろう?と
考えてみたことはないだろうか。
私は幼少期、よく内なる自分と対話していた。
自分の中の“内なる自分”と出会うのが、ほんのちょっぴり人より早かったのだと思う。
今思い返すと、頭の中でよく考えを巡らせて過ごしていた。
どれくらい一人の世界を楽しんでいたかというと、夏祭りでもらってきた金魚が入った水槽の前の椅子に座り、3時間、この金魚たちの物語を空想して過ごすことはたやすいことだった。水槽の中には、古城の門構えのあしらわれた置き物と時折金魚たちにつつかれて柔らかく揺れるあおあおとした水草が二つほど、下には細かな灰色の石が敷かれており、私はこの3匹の金魚にそれぞれ物語の中の役割をもたせた。
家族で出かけた潮干狩りで、捕まえてきたあさりを数個母に譲ってもらって、お風呂の小さな桶に水をためて、あさりたちを入れて、上からジョーロで水をあげたり固く重なった蓋の間から音もなくすーっと出てくる出水管に心を奪われ1日を費やした。
その夜お味噌汁の中に入っているあさりたちを目にして、あさりたちの気持ちを思って大泣きをして家族を困らせた。
木やありんこ、熱い夏の日のからからに乾いたアスファルト、走り回って汚れた運動靴、
がたがた音を鳴らす下駄箱の下に敷いてあるやつ、かちかちに凍ったチューペットを兄弟と半分こして食べる昼下がり。照り付ける太陽がまだただ熱いだけの存在だったあの時。
高いところからジャンプした時の気持ちよさ、私はよく覚えている。
ひとつひとつのことに、心をたくさん動かしてきた幼少期だった。
私が今も、いろいろなことを受け止めることができるのは、幼少期に内なる自分と出会い
考えることを楽しんだから。
そして、今になって感謝したいのは、一見くだらない私の行動を、母はそっと、ほっておい
てくれたこと。あの時、良かれと思って、言葉で説明をしてくれるような人だったら、今の私は、文章を通して自分の気持ちを表現する人にはなっていないと思う。
優しさのある"ほっておく"をしてもらったから
私は度々うまれる疑問や喜びや葛藤、悲しみ
発見とじっくり向き合うことができた、はず。
誰かに答えを教えてもらうのではなく
自分で見つけるから私のものになる。
そうやって磨いてきた自分の第六感は
きっとこれからも私を助けてくれるはず。
内なる自分を侮るなかれ。
時々脇道に逸れながら磨きをかけていきたい。
第六感