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2.私がラジオディレクターになった理由~夢を馬鹿にされた高校生から 夢に触れた大学生時代~
●はじめに
前回の記事「私がラジオディレクターになった理由~夢を見つけた中学生時代~」の続きです。
今回は高校生から大学生までのお話を書いていきます。
●大好きなラジオ番組の終了
とにかくラジオが大好きだった中学時代が過ぎ、高校生になります。
ある日、大好きな「ABCミュージックパラダイス」が突然終わると告げられます。
当時はショックすぎてしばらくラジオが全く聴けなくなりました。
たまにチャンネルを回すも自分にハマる番組が見つからない…。
少し遠方の高校に通いながら部活もしていて忙しかったこともあり、少しずつラジオから離れていくようになりました。
●夢を馬鹿にされた高校生時代
高校3年生の頃、指定校推薦で大学受験をすることになりました。
試験は小論文。
試験対策として当時の担任の先生に添削をしてもらうことに。
お題は「将来なりたいもの」でした。
自分が将来どんな風になりたいのか、そのために大学で何を学びたいのかを書きました。
当時色々と考えていると中学生の頃の夢を思い出します。
「ラジオ局で働きたい」と書いて担任の先生に添削をお願いしました。
担任の先生が読んでひとこと。
「いや、絶対無理でしょ。」
言われた直後はショックで言葉が出ませんでした。
確かになれる確率は低いかもしれないけど、夢を全否定されるのは違う。
だんだん悲しみは怒りに変わっていきます。
複雑な感情を抱きつつも書き直した結果「音楽関係の仕事」という内容で落ち着きました。
卒業以来その先生には会っていませんが、もし会うことがあるならば2年後にアルバイトをし、5年後にラジオ局に入社して夢を叶えたと言ってやりたいです。
●大学生になり放送サークルへ
時は過ぎ大学生になります。
入学当時は友達があまり出来ずつまらない学生生活を送っていました。
お昼になりふらふらとキャンパスを歩いていると、校舎から突然ラジオ番組が流れ始めます。
放送サークルがやっている生放送番組でした。
久しぶりに聴いたラジオに「面白いなー」と感じ、私もやってみたいと思いました。
翌週には見学に行き入部届を提出。
ラジオの裏側に触れるきっかけとなりました。
●放送サークルでの活動
私の所属していた放送サークルはラジオ専門のサークルでした。
活動内容
サークルでは、パーソナリティを担当したい人はアナウンサー練習、裏方を担当したい人は技術を毎週2回授業の空きコマを使ってしっかり学びます。
どちらもかなり本格的な内容で、実際にラジオ局に就職してからも活かせる技術が多かったです。
制作に関してはお互いが協力して行っていました。
初めての番組制作
毎週の練習で技術を磨きながら、ほぼ同時進行で新入部員だけで30分の録音番組を制作します。
右も左も分からないけど、上級生に教わりながらみんなで意見を出し合ったり、本番直前になれば夜中まで作業をしたりもしました。
とても大変でしたが、一緒に頑張ることでサークルの人たちと仲良くなるきっかけにもなりました。
また一つのものを作り上げるのはとても楽しかったです。
今思えば、これが私の始めてのラジオ制作でした。
そのほかにも生放送を想定した一発録りの番組を制作したり、文化祭では公開生放送番組を制作したりしてました。
憧れの昼放送
入部して一年以上経過してようやく憧れのお昼休みの生放送を担当できます。
パーソナリティとして好きなテーマで喋ったり、裏方としてBGMや選曲したりわくわくしながら行っていました。
何よりラジオに興味のある人が多かったので、ラジオの話を当たり前のようにできることが幸せでした。
●サークルの紹介でラジオのアルバイト
サークルに所属していると時々アルバイトのお知らせが来ていました。
ある日、京都にあるコミュニティFMでのアルバイト募集のメールが届きます。
ちょうどアルバイトを探していて、以前からラジオ局のアルバイトをしてみたいと思っていたこともありすぐに返信。
後日見学に行くことになりました。
紹介だったからか面接は特になく、仕事内容と社内を案内してもらってもしやってみたければぜひお願いしたいという感じでした。
ひょんなことからラジオ局で働いてみたいという夢が叶いました。
仕事内容
仕事内容は、朝10時から2時間の生放送番組のAD兼ミキサー(技術)でした。
パーソナリティがディレクターを兼任していてアルバイトとパーソナリティ2人だけで生放送を進めます。
シフトは曜日で固定。生放送なので遅刻は絶対にできません。
なので、前日どれだけ寝るのが遅くなっても毎週特定の曜日だけは絶対に起きてアルバイトに向かっていました。
アルバイトの流れ
当日は生放送の30分くらい前に出社すれば大丈夫でした。
パーソナリティ作った進行表とCDが用意されているので、一枚ずつ音量の確認をしていきます。
機材からも音を出して不具合がないかを確かめます。
時間があればパーソナリティにお茶を出したりもしていました。
生放送がスタートすれば、コーナーに合わせてBGMやSEを入れたり、曲を入れたりしていきます。
CMを出すのも仕事の一つです。
パーソナリティと息をしっかり合わせることが大切な仕事でした。
生放送が終われば、片づけをして終わりです。
給与
時給は当時で800円。週1回3時間ほどで2400円。
稼ぐというよりかは経験したいという気持ちで入っていました。
アルバイトでの失敗その1
当時お世話になった社員さんには「CMさえすべて出してくれればあとは何しても大丈夫」と言われてました。
とはいいつつ、生放送なので失敗しても放送は流れます。
一番大きな失敗はアルバイトを始めてすぐの頃です。
事前の確認で機材がミュートになっているのに気づかずそのままオンエアがスタート。
時間になっても全く音が出ず、30秒ほど無音になってしまったことがありました。
社員さんが急いで飛んできてミュートを解除。
当時のパーソナリティの方もすぐにフォローを入れてくれました。
本番終了後謝りに行きましたが「全然大丈夫よ」と神様のような対応。
その後は、本番前にミュートが解除されているかどうかも必ず確認するようになりました。
アルバイトでの失敗その2
番組のエンディングテーマを出すのが完全手動なのでちょうど2分前に出さないといけないのですが、時々押し忘れてしまい、パーソナリティの人ももう少し時間があると思ってしまい話の途中で番組が終わってしまうということもありました。
今考えたら終了時間の合わせて上手く声とBGMをフェードアウトするとか手で残り時間をカウントするとか方法は色々あったんですが、当時の自分にはそんな考え全く思いつかず…
働いた感想
たくさん失敗もしましたが、いつも優しく見守ってくれる職場でした。
大学を卒業するまで2年半ほどお世話になりました。
アルバイトが生放送の技術を一人で担当するってなかなか経験できることではないなと思いながらやってました。
毎回ドキドキしてましたが、それ以上にわくわくしながら進行していました。
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●続きは次回
今回は高校時代のお話から大学時代まで書いてきました。
高校時代は悲しさや怒りを胸にしていましたが、大学ではたくさんの夢に触れることができました。
「ラジオ局で働いてみたい」という夢を叶え、アルバイトをしていた当時はこれで悔いなく社会人になれると思っていました。
就職活動以降のお話はまた次回書いていきます。