今日も宗達を想う
1. 根津美術館で開催中の「救いのみほとけーお地蔵様の美術ー」展に足を運んだ。「地蔵菩薩立像」には圧倒された。
いつもとは違って、照明を落とした大きな空間に、ほとんど一室の主のように奥の中央に置かれていた。陳列を見に行ったというよりも、出会いに行ったような気がする。日曜日の閉館前で、観光客の団体はお土産売り場に移動していて、おかげで10分間ほど、「地蔵菩薩立像」を独り占めした!
柔和なお顔立ちに、目も心も吸い込まれて、立ち尽くして見入ってしまった。世の中には、こんなに美しいものがあるのだな、と思った。誰かの風貌に見覚えがある、と思ったら、平家納経のなかに描かれていた女性達に似ていると思った。この美意識、どことどこに成立のカギがあるのだろう、と立像の線のリズムや間隔やら、いろいろ頭の中で測ってみるけれど、実際には感覚的なものしか感じられない。自分もすぐに応用できる気が、一向にしてこない。
こういう同じことが、宗達の美術をみていても起こる。まるで天上の美術に触れてでもいるかのように感じられるのだが、いざ自分でやってみると、どこから手をつけたらこうなるのか、と思うような事ばかり連続する。きっと、宗達が平家納経を初めて見たときにも、同じようなことを考えただろう。
結局のところ、仏教のみ教えのありがたさを、こころ深くまで理解しなければ、到達できない。計測して成るものではなくて、心も美術の道具である、そういう最も根源的なところを改めて意識させてくれる。高い、高い存在である。
2. 丁度いま、アメリカの美術大学の準教授が、日本画を習得しに通ってきてくれている。どんな絵を描いてきたか、今日は聞いてみた。
「最初はアブストラクトばかりだった。どうしてだろう、若かったからなのか?いくらでもそれで行ける、と思っていた。アブストラクトは難しかった。自分には続けられない、と思った。途中でやめたんだ。
今は具象で、静物画を描いている。」
と言ったので、
「では、アブストラクトと具象の中間を行くのはどうですか?宗達のようにね。」
と答えた。
「そうそう。宗達は、そういう行き方をしているよな。ただのデザイン性じゃない。」
と返ってきたので、とても嬉しかった。
「私も、そう思いますね。もっと、奥深く、思想的で、根底に研ぎ澄まされた哲学がある絵画ですね。」
「そうなんだ、そうそう。」
3. それから、「地蔵菩薩立像」を見て私は、この境地にすこしでも触れて、そして自分でもこの美の制作者に名を連ねたい、と強く思うならば、
仏門を訪ねる事は当然だろう、と思った。ごく自然なことだろう、と。
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