龍の襖絵

昨年の夏に、ある個人宅の仏間に龍を描かせていただいた。
その様子をInstagramに投稿したら、反響が大きく、いまだに会う人にその話題を持ちかけられる。

こんな質問をされている。

「直接描いて、緊張しなかったか?」

緊張どころか、たのしくてしようがなかった。
描けば描くほど、そこに龍がいるのが見えてきて、
形をおこそうとして、夢中で筆を動かした。
そこに、龍のランドが見えていた。
影をなぞるように、筆で墨をつけただけ。
あちこちに龍があらわれて、それぞれの性格を持っていて、起伏に富んだ自然界のなかで、全体でひとつの物語になっていった。私のために出てきて、語ってくれた。

「もともと大きな絵は描いていたの?」


全く。私はもともと、色紙くらいの小さな絵が好きだ。
学生時代は、課題のために30号~100号の大きな絵も描いたけれど、大きな絵に疑問を持っていた。
大きさだけで魅せられるのが真の芸術ではない、と考えて、反発していたくらいだ。小さくても名品は名品で、小さな絵もしっかりと描けるような画家になりたい、という、目指している境地があった。

今回、襖3枚にわたる大きな絵をかいてみて、その気分のよさにすっかり虜になった。

思えば、学生時代はそれほどの技術もなかったので、大きな絵を「気分」だけで埋め切るのには無理があった。私はそれを嫌っていたのだ。
今回は、「龍がこう出てくるなら、じゃあ私はそれを、こう表そう。
このように筆を置いて、…このように水を引いておいて、…墨色がこうならば一気に引ける線がある。」など技法を尽くした。
マニュアルカーのドライブの様に、爽快さがあった。
全身全霊で知恵を駆使して描くことを覚えた。

「下書きはしたの?」
その仏間に入ってはじめて大きさをみて、
龍がみえ始めてたわずかな形状を、残したくて描いている内に、
全体の構想ができていった。追いかけながら描いていたので、下書きは一切なし。
自分でもよくと思うけれど、怖さはなかった。

「失敗したらどうするの?」


龍のランドに入り込ませてもらって描いていたので、
失敗するなど考えもしなかった。
そこに人間はいなかったように思う。
龍の世界の端にいさせてもらえた、貴重な時間をおもいっきり描くことに当てた。異世界に入り込んで、スケッチさせてもらえる権利をたまたま頂いたようなもの。

人間の「誰か」がいない世界で、私に失敗を咎めるような人もなくて、
という状況だった。

「紙はどうしたの?」

紙は実は何種類か用意してもらっていて、いくらでも描き直せばいいよ、と言ってもらっていた。
その仏間のふるい唐紙が、煙をしみこませて黄色く変色していた。
紙はからからに乾ききっていて、いかにも、見るからに描きやすそうだった。実際、とても描きやすかったし、ほかの紙にはない表現力があって、面白くて仕方なかった。個性がはっきりとあって、直ぐに掴むことが出来たのも良かった。いろいろな表現がうまれた。その紙でなければできないような表現を生めるので、それがいちいち面白かった。

「その紙でなければ3枚連続の作品にならないのに、怖くなかったの?」


紙のもつ表現力が高かったので、失敗することは考えもしなかった。
そういう心の境地だった、としか言いようがない。

「龍をかくことは決まっていたの?」


実際、何ひとつ決まっていなくて、紙をみて決めた。見えてきたものを、素直に描いた感じ。

「もっと描きたい?」


本当に!もっとやりたい。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?