(音声配信)自己紹介~独学からのスタート
リミ
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私は今でこそ講座を開講したりしていますが、作家として販売をスタートしたのはとてもとても小さなスタートです。先日、今、独学で限界を感じています、リミさんが今までどのようなことをしてきたのか教えて欲しいです、とご連絡を頂きました。私が販売をスタートしたのは西暦2000年です。作家歴が長いから凄いと感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、私にとっては、作家歴が短くて一気に活躍される方の方が凄いと感じてしまいます。ちょっとした嫉妬みたいな感じですよね。
私は最初の5年間は学生と兼業で作家活動をしていました。そして次の5年間は社会人として会社で働きながらの兼業、次は天然石屋で1年半働いたので、この時は作家活動はお店で禁止されていたので活動はしていません。その後、夫と結婚して3年間マレーシアで暮らしました。日本に帰ってきたのが2015年4月で、それから数か月間は集中して不妊治療に通っていました。いろいろとやりましたが私の体では今の医学ではどうしようもないということが分かって、作家活動を再スタートさせる気持ちになったのが2015年の年末です。2016年から講師活動と作品販売を本格的に再スタートしました。2019年の秋にマスクイヤリングを思い付き、現在に至ります。
最初の10年間は今でいう副業としてアクセサリー作家をしていました。当時は副業という言葉は使われていなかったので、副業とは言ったことは無いですが。
私自身がアクセサリーを一番最初に作ったのは小学2年生の時、工作で綺麗なボタンをピンク色の画用紙に貼り付けて王冠を作ったのがはじまりです。それが今でいう市展ですね、市の展覧会に出品していただけて佳作をもらったのが凄く嬉しかった記憶があります。もともとは絵を描くのが大好きで、キラキラした世界にあこがれて、ドレスのお姫様の絵を毎日のように描いていました。アクセサリー作りは小学生の頃にハマって、でも今のようなキラキラしたビーズは手に入らなくて、近所の手芸屋さんでシードビーズ、小さな粒粒のビーズをテグスや細いワイヤーで編んで、モチーフや指輪を作って遊んでいました。
その後、中学生高校生の時はアクセサリー作りはしていなかったのですが、大学生になって実家の滋賀の田舎から京都まで定期券があったので、今まで行けなかった京都や大阪、まあ私にとっては大都会に気兼ねなく行けるようになったのが大きかったです。当時、京都の駅のすぐそば、京都タワーの地下にヨシカワという大きな手芸屋さんがあって、大学の帰りに寄って、いいなぁ、いいなぁとワクワクしながらウインドショッピングを楽しんでいました。大学生になってから、週末はドラッグストアでバイトをして金銭的にも時間的にも余裕ができたので、昔みたいに何か手芸をやりたいなぁと思っていました。それで、たまたま近所の公民館で樹脂粘土のお花の教室があって、月2回、2年間通いました。当時は何か手作りとか手芸がしたいなぁと思っていたのでアクセサリー作りに限らず編み物とか粘土とか何でも興味をもってあれこれ挑戦していました。売るということがメインではなくて、楽しいこと、趣味を見つけたいという気持ちですね。
そんなこんなで、20歳と言えば一大イベントが成人式です。着物に合う髪飾りを探していたのですがなかなかいいのが見つからなくて困ったんですね。そもそも着物用の髪飾りってあまり店頭に売っていないですし、着物屋さんで見たら5000円とか1万円とかしてとんでもないけど貧乏大学生は気軽に買えないです。それで自分でビーズで作ろうとなったのが19歳の時でした。京都の手芸屋さんでは可愛いビーズやリボンがたくさん売っていて、材料が簡単に手に入ったのです。
私が困ったということは、他の人も困っているはずだと、髪飾りを手作りしてヤフオクに出品してみたら、すぐに売れたんです。髪飾りはたくさん売りました。ワイヤーをねじって作る小枝風のコサージュのような髪飾りが一番よく作りましたね。樹脂粘土のお花の髪飾りも作りました。まあ、基本的には貧乏学生なので、自分が作ったものが売れるというのが本当嬉しくて、ワクワクしながら作って売っていました。
私がヤフオクで売り始めた翌年くらいですかね、スワロフスキーをはじめとするビーズブームがどかんと来たんです。私自身も髪飾りだけではなく少しずつアクセサリーを作り始めていた頃だったので、でもアクセサリーを作って売るのではくて、このビーズブームに乗って、作る人が一気に増えたから、キットを売ろうと、次はビーズのキットを売り始めました。スワロフスキーの指輪キット、動物のビーズモチーフのキット、チェコガラスビーズを編んで作るビーズボールの編み方キット、そしてステンレスワイヤーを土台にしたパールのティアラのキットを売り始めました。アクセサリー作りは独学です。当時は独学で恥ずかしいとかそういうことを考えたことは無くて、本で学べるような基本的な知識で、自分でいろいろとアレンジして新しい編み方を考えたり、デザインを考えたり、キットを考えるのがとても楽しくて、そして求めてくださるお客様もたくさんいらっしゃって、楽しい毎日を過ごしていました。学生なのでプライドも何もなかったです。
そんな感じでビーズアクセサリーのキットをメインで売っていたのですが、20歳の夏に富士登山に挑戦した帰りに寄った天然石屋さん、宝石の館という名前でしたね、今はもうありませんが、で天然石に出会ったのです。ビーズじゃない、ひとつずつ形が違うし、パワーストーンとして意味があって面白いなぁと思ったんですね。でも、天然石は京都の手芸屋さんヨシカワには売っていないし、手に入りにくい素材でした。手に入りにくいからこそ、まだアクセサリーとしてメジャーでは無いからこそ、そこに可能性や魅力を感じて、これからは天然石を使っていこうと思い立ったのです。
みなさん、私が大学生というこを忘れているかもしれないですが、単位は落とさず最短で取得して、学生生活も真面目にやっていました。そのあと大学院に2年通ったのですけど、実はその頃はアクセサリー作りの方が楽しくて、大学院の研究ですね、修士論文は物凄く書くのが苦しくて何だか心が荒んでいて、修士論文が間に合うか悪夢のようにうなされていた記憶があります。大学院を辞めたくてたまらなかったんですね。でも奨学金を頂いて通っていたということもあって、辞めるわけにはいかないし、今まで勉強したことは何だったんだろうという人生が転落するように感じて何とか苦しんで卒業しました。そして、新卒で企業に入社できるというタイミングはこの機会しかないので、単純ですが社会のレールから外れたくなかったというのもあります。
入社する会社は、ものつくりをしている会社がいいなぁと、自社で金属から建材を作っている会社に入社しました。ちょっと面白くてハンドメイドで使われる素材も作っている会社で、それは世界No.1のシェアとブランド力を誇っています。まあ大きな会社なのでいろいろありますが、会社の雰囲気はとても良くて、建築家の安藤忠雄さんが設計した寮に住まわせてもらって、環境としてはとてもよかったです。入社したら最初の2年くらいはアクセサリー作りや販売はお休みしていました。はじめて関東で一人暮らし、まあ寮ですけど、今まで田舎実家暮らしだったのに都内で働く新入社員なのでそれどころではないですよね。少し余裕が出てきた2年目、ずっとワイヤーと天然石のアクセサリーを作っていたけど、この先どうしようかなぁと考え始めていたんです。独学で自分で考えて作っていたけど、本当にこれでいいのかなぁ、強度や金属の事、ものつくりをもっと極めたいと、週末に彫金教室通い始めました。そこはいわゆる教室ではなくて、職人さんがやっている工房で、チケット制で工房にお邪魔して作業台を貸してもらい作業ができるという感じでした。彫金の機材ですね、鋳造するキャストと言われる機材などひと通りそろっていて、職人兼先生が作業しているのを横で見せてもらったり、面白かったですね。今まで独学でやっていたのと全然違うなぁというのも感じましたし、でも彫金の機材をそろえるのは、かなりの投資が必要で、技術もいるし、ひとつ作品を作るのにいくつもの工程が必要、それに比べてワイヤーアクセサリーは、すぐに自分の作るものが形になる、やっぱり私はワイヤーアクセサリーの方を極めたいと改めて感じることができました。
かなり遠回りしているかもしれないのですが、私は遠回りしているからこそ、いろいろ考えたり自分で学んでみようと行動できる余裕があったのですね。当時は会社員として平日働いていたので、日中は製作販売はできなくて、年2回、デザインフェスタという東京ビックサイトで開催されるクラフト系アーティスト系のイベントで出店していました。発信活動は、SNSというものは無いので、ブログというか日記で発信するくらいです。イベントで偶然見つけてくれた人が買ってくれるという感じでした。今は作家はSNSの投稿もしなくてはいけないし大変ですよね。
会社員5年目29歳の時でした。会社はとてもいい環境で先輩にも恵まれていたのですが、そろそろ昇級試験を受けない?と言われたころ、このまま私はこの会社で一生働くのかな、再チャレンジするなら今なのかもしれないと、思い切って会社を辞めることにしました。でも辞めていきなり独立する自信は無くて、アクセサリー教室をやっている天然石屋で講師兼店員として働くことにしました。
私はアクセサリー作りは基本的なことはできますが、教室で教える講師のレベルにはまだまだでした。そこで先輩講師さんから講習を受けて、やっとあぁ、私全然ダメだったなぁと再確認する機会を頂いたんです。そこの天然石屋さんは店員さん全員がアクセサリー作りを極めていて、まあ、そうですよね、天然石でアクサセリーを作る方をお客様にしているので、お客様からいろいろと聞かれますし、自分が付けている天然石アクセサリーを見て、良いなぁと気に入って買ってくださったりするので。アクセサリー作りが下手な人はひとりもいませんでした。店長は60歳のマダムだったのですが、老眼と言いながら、どでかい拡大鏡を出してきて非常に細かいアクセサリーを完璧に作っていましたね。みんなできるまで練習しています。私もできるまで練習しましたね。強制的にそういう場、環境にいけたということは幸運でした。お給料を頂きながら修行させてもらっているということなので。ですので、たくさん修行していますし、売り物レベルというのはどういう物なのか、アクセサリーの金具の付け方、繋げ方の良い悪の判断はできます。
独学で限界を感じたら、私のように教室やお店で働くまではしなくてもいいと思いますが、教室や講座で先生と直接触れ合えたりチェックしてもらえる場に身を置いてみるのは刺激になります。自分に足りない物を学ぶということに重点を置いてみるといいと思います。自信が付きますね。
ただ、影響を受けやすい人は要注意で、あれこれ手を出してどれも中途半端。結局何がやりたいの?ということになってしまうと永遠に作家として一目置いてもらえる存在にはなれません。先生の真似では駄目なのですね。真似じゃないと作品が作れない、自分でデザインが生み出せない方は要注意です。
この音声配信は
マスクイヤリング講座、第71回目の配信のアーカイブです
マスクイヤリング ホームページ
https://mask-erg.net/
天使のさざれ ホームページ
https://sazare.info
2012年~のブログはこちら
https://ameblo.jp/104sazare/
作品紹介はこちら
https://www.instagram.com/104sazare/
私は最初の5年間は学生と兼業で作家活動をしていました。そして次の5年間は社会人として会社で働きながらの兼業、次は天然石屋で1年半働いたので、この時は作家活動はお店で禁止されていたので活動はしていません。その後、夫と結婚して3年間マレーシアで暮らしました。日本に帰ってきたのが2015年4月で、それから数か月間は集中して不妊治療に通っていました。いろいろとやりましたが私の体では今の医学ではどうしようもないということが分かって、作家活動を再スタートさせる気持ちになったのが2015年の年末です。2016年から講師活動と作品販売を本格的に再スタートしました。2019年の秋にマスクイヤリングを思い付き、現在に至ります。
最初の10年間は今でいう副業としてアクセサリー作家をしていました。当時は副業という言葉は使われていなかったので、副業とは言ったことは無いですが。
私自身がアクセサリーを一番最初に作ったのは小学2年生の時、工作で綺麗なボタンをピンク色の画用紙に貼り付けて王冠を作ったのがはじまりです。それが今でいう市展ですね、市の展覧会に出品していただけて佳作をもらったのが凄く嬉しかった記憶があります。もともとは絵を描くのが大好きで、キラキラした世界にあこがれて、ドレスのお姫様の絵を毎日のように描いていました。アクセサリー作りは小学生の頃にハマって、でも今のようなキラキラしたビーズは手に入らなくて、近所の手芸屋さんでシードビーズ、小さな粒粒のビーズをテグスや細いワイヤーで編んで、モチーフや指輪を作って遊んでいました。
その後、中学生高校生の時はアクセサリー作りはしていなかったのですが、大学生になって実家の滋賀の田舎から京都まで定期券があったので、今まで行けなかった京都や大阪、まあ私にとっては大都会に気兼ねなく行けるようになったのが大きかったです。当時、京都の駅のすぐそば、京都タワーの地下にヨシカワという大きな手芸屋さんがあって、大学の帰りに寄って、いいなぁ、いいなぁとワクワクしながらウインドショッピングを楽しんでいました。大学生になってから、週末はドラッグストアでバイトをして金銭的にも時間的にも余裕ができたので、昔みたいに何か手芸をやりたいなぁと思っていました。それで、たまたま近所の公民館で樹脂粘土のお花の教室があって、月2回、2年間通いました。当時は何か手作りとか手芸がしたいなぁと思っていたのでアクセサリー作りに限らず編み物とか粘土とか何でも興味をもってあれこれ挑戦していました。売るということがメインではなくて、楽しいこと、趣味を見つけたいという気持ちですね。
そんなこんなで、20歳と言えば一大イベントが成人式です。着物に合う髪飾りを探していたのですがなかなかいいのが見つからなくて困ったんですね。そもそも着物用の髪飾りってあまり店頭に売っていないですし、着物屋さんで見たら5000円とか1万円とかしてとんでもないけど貧乏大学生は気軽に買えないです。それで自分でビーズで作ろうとなったのが19歳の時でした。京都の手芸屋さんでは可愛いビーズやリボンがたくさん売っていて、材料が簡単に手に入ったのです。
私が困ったということは、他の人も困っているはずだと、髪飾りを手作りしてヤフオクに出品してみたら、すぐに売れたんです。髪飾りはたくさん売りました。ワイヤーをねじって作る小枝風のコサージュのような髪飾りが一番よく作りましたね。樹脂粘土のお花の髪飾りも作りました。まあ、基本的には貧乏学生なので、自分が作ったものが売れるというのが本当嬉しくて、ワクワクしながら作って売っていました。
私がヤフオクで売り始めた翌年くらいですかね、スワロフスキーをはじめとするビーズブームがどかんと来たんです。私自身も髪飾りだけではなく少しずつアクセサリーを作り始めていた頃だったので、でもアクセサリーを作って売るのではくて、このビーズブームに乗って、作る人が一気に増えたから、キットを売ろうと、次はビーズのキットを売り始めました。スワロフスキーの指輪キット、動物のビーズモチーフのキット、チェコガラスビーズを編んで作るビーズボールの編み方キット、そしてステンレスワイヤーを土台にしたパールのティアラのキットを売り始めました。アクセサリー作りは独学です。当時は独学で恥ずかしいとかそういうことを考えたことは無くて、本で学べるような基本的な知識で、自分でいろいろとアレンジして新しい編み方を考えたり、デザインを考えたり、キットを考えるのがとても楽しくて、そして求めてくださるお客様もたくさんいらっしゃって、楽しい毎日を過ごしていました。学生なのでプライドも何もなかったです。
そんな感じでビーズアクセサリーのキットをメインで売っていたのですが、20歳の夏に富士登山に挑戦した帰りに寄った天然石屋さん、宝石の館という名前でしたね、今はもうありませんが、で天然石に出会ったのです。ビーズじゃない、ひとつずつ形が違うし、パワーストーンとして意味があって面白いなぁと思ったんですね。でも、天然石は京都の手芸屋さんヨシカワには売っていないし、手に入りにくい素材でした。手に入りにくいからこそ、まだアクセサリーとしてメジャーでは無いからこそ、そこに可能性や魅力を感じて、これからは天然石を使っていこうと思い立ったのです。
みなさん、私が大学生というこを忘れているかもしれないですが、単位は落とさず最短で取得して、学生生活も真面目にやっていました。そのあと大学院に2年通ったのですけど、実はその頃はアクセサリー作りの方が楽しくて、大学院の研究ですね、修士論文は物凄く書くのが苦しくて何だか心が荒んでいて、修士論文が間に合うか悪夢のようにうなされていた記憶があります。大学院を辞めたくてたまらなかったんですね。でも奨学金を頂いて通っていたということもあって、辞めるわけにはいかないし、今まで勉強したことは何だったんだろうという人生が転落するように感じて何とか苦しんで卒業しました。そして、新卒で企業に入社できるというタイミングはこの機会しかないので、単純ですが社会のレールから外れたくなかったというのもあります。
入社する会社は、ものつくりをしている会社がいいなぁと、自社で金属から建材を作っている会社に入社しました。ちょっと面白くてハンドメイドで使われる素材も作っている会社で、それは世界No.1のシェアとブランド力を誇っています。まあ大きな会社なのでいろいろありますが、会社の雰囲気はとても良くて、建築家の安藤忠雄さんが設計した寮に住まわせてもらって、環境としてはとてもよかったです。入社したら最初の2年くらいはアクセサリー作りや販売はお休みしていました。はじめて関東で一人暮らし、まあ寮ですけど、今まで田舎実家暮らしだったのに都内で働く新入社員なのでそれどころではないですよね。少し余裕が出てきた2年目、ずっとワイヤーと天然石のアクセサリーを作っていたけど、この先どうしようかなぁと考え始めていたんです。独学で自分で考えて作っていたけど、本当にこれでいいのかなぁ、強度や金属の事、ものつくりをもっと極めたいと、週末に彫金教室通い始めました。そこはいわゆる教室ではなくて、職人さんがやっている工房で、チケット制で工房にお邪魔して作業台を貸してもらい作業ができるという感じでした。彫金の機材ですね、鋳造するキャストと言われる機材などひと通りそろっていて、職人兼先生が作業しているのを横で見せてもらったり、面白かったですね。今まで独学でやっていたのと全然違うなぁというのも感じましたし、でも彫金の機材をそろえるのは、かなりの投資が必要で、技術もいるし、ひとつ作品を作るのにいくつもの工程が必要、それに比べてワイヤーアクセサリーは、すぐに自分の作るものが形になる、やっぱり私はワイヤーアクセサリーの方を極めたいと改めて感じることができました。
かなり遠回りしているかもしれないのですが、私は遠回りしているからこそ、いろいろ考えたり自分で学んでみようと行動できる余裕があったのですね。当時は会社員として平日働いていたので、日中は製作販売はできなくて、年2回、デザインフェスタという東京ビックサイトで開催されるクラフト系アーティスト系のイベントで出店していました。発信活動は、SNSというものは無いので、ブログというか日記で発信するくらいです。イベントで偶然見つけてくれた人が買ってくれるという感じでした。今は作家はSNSの投稿もしなくてはいけないし大変ですよね。
会社員5年目29歳の時でした。会社はとてもいい環境で先輩にも恵まれていたのですが、そろそろ昇級試験を受けない?と言われたころ、このまま私はこの会社で一生働くのかな、再チャレンジするなら今なのかもしれないと、思い切って会社を辞めることにしました。でも辞めていきなり独立する自信は無くて、アクセサリー教室をやっている天然石屋で講師兼店員として働くことにしました。
私はアクセサリー作りは基本的なことはできますが、教室で教える講師のレベルにはまだまだでした。そこで先輩講師さんから講習を受けて、やっとあぁ、私全然ダメだったなぁと再確認する機会を頂いたんです。そこの天然石屋さんは店員さん全員がアクセサリー作りを極めていて、まあ、そうですよね、天然石でアクサセリーを作る方をお客様にしているので、お客様からいろいろと聞かれますし、自分が付けている天然石アクセサリーを見て、良いなぁと気に入って買ってくださったりするので。アクセサリー作りが下手な人はひとりもいませんでした。店長は60歳のマダムだったのですが、老眼と言いながら、どでかい拡大鏡を出してきて非常に細かいアクセサリーを完璧に作っていましたね。みんなできるまで練習しています。私もできるまで練習しましたね。強制的にそういう場、環境にいけたということは幸運でした。お給料を頂きながら修行させてもらっているということなので。ですので、たくさん修行していますし、売り物レベルというのはどういう物なのか、アクセサリーの金具の付け方、繋げ方の良い悪の判断はできます。
独学で限界を感じたら、私のように教室やお店で働くまではしなくてもいいと思いますが、教室や講座で先生と直接触れ合えたりチェックしてもらえる場に身を置いてみるのは刺激になります。自分に足りない物を学ぶということに重点を置いてみるといいと思います。自信が付きますね。
ただ、影響を受けやすい人は要注意で、あれこれ手を出してどれも中途半端。結局何がやりたいの?ということになってしまうと永遠に作家として一目置いてもらえる存在にはなれません。先生の真似では駄目なのですね。真似じゃないと作品が作れない、自分でデザインが生み出せない方は要注意です。
この音声配信は
マスクイヤリング講座、第71回目の配信のアーカイブです
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作品紹介はこちら
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