嫌われる楽しさ
昔は、人に嫌われるのがめちゃくちゃ怖かった。
今は、自分を隠してまで人に好かれるくらいなら嫌われるほうがいいなぁと。
でもね、タイトルに書いたこととは真逆で嫌われることは楽しくないし、嬉しくない。ただ、それくらいの心意気でありたいなって思う。
おかしいことをおかしいと発すること、指摘すること、調べることが異常と言われる社会。そして、はっきり言って「従うことだけが正しい」とされる社会だ。
思いやりという優しい言葉を使った誘導。
美味しくて甘いおやつを使った誘導。
その異様さが私はどうしても無理で、必然的に自分の考え方で行動するようになった。
わたしはわたし。あなたはあなた。
ただ、それだけ。
昔は、自分を隠してでも人に好かれたい、愛されたいと思っていた。これは、ずっと顔色伺いして育ってきた子供時代の影響もある。
今は嫌われることによって、ますます自分の軸がかたまるような感覚だ。考え方の違いがあるのだから、当然のこと。
若干の寂しさを帯びつつ、心の中で「ありがとうね、またね」って思う。考え方の違いがあろうと、やっぱり同じ人間だから、私はさっと握手して、またねと去りたい。
私自身は苦手だなぁと思う人はいるけど、嫌いな人はいない。自分を分析してみると、自己肯定感が低いため、嫌いって感情がうまく使えないのはある。
昔の職場のハラスメント上司に対しても、嫌いって感情は抱けず「話が通じない別世界の人なんだな、人権侵害ばかりのあんたとはもう2度と会わねぇ、因果応報は必ずあるからな?」って思ってた。それはそれで、やばいやつかもしれないな、わたし。
私の癖なのだが、何故この方はそう行動するのか、そういう発言をするのか、いつも背景を考えてしまう。疲れちゃうから本当に止めたい癖。でもね、この背景を考える癖が今の仕事には役に立っている。
ほどよく人と関わり合いながら、自分らしく生きていきたいなぁって思うよ。たまには好かれたり、嫌われたりしながら。