見る、ということは。

 天使は存在した。俺は、あの日、そう確信した。もしくは、神が溺愛した人間というのは存在した。
 彼女はそれほど、完璧なまでに、美しく、可憐だった。 
 その、まぁ、簡単に言うと、いわゆる一目惚れというやつである。

 その日、例年に比べて短めのゴールデンウィークが明けて、二日目だ。俺は同じ部活に入っている友人のクラスにお邪魔していた。お邪魔するといっても、同じ高校の、同じ階の、二つ隣の教室に、休み時間に遊びに行くだけだ。特に大仰な手続きがいるわけではないし、日常的に行われていることであるし、特筆する必要もない。ただ、俺はその日を一生忘れないだろうと思う。
 その教室で何をしていたと聞かれても、特にしていたことがあるわけではない。とりあえずだらだらとしゃべっていた。まだ5月の前半だというのに、すでに太陽はがんばりすぎていて、明るく教室を照らしていた。要するに、暑かった。先生が居ないことをいいことに、シャツのボタンをだらしなく開けているやつもちらほらいた。俺は窓のサッシに半分もたれかかりながら、友人の机に置いてあった下敷きをぺこぺこ言わせながら、団扇代わりに扇いでいた。
 今日は本当に暑いなとか、明日は涼しいといいなとか、いや明日は雨が降るらしいぞとか、そんな会話だった。天気の話をするのは話題に困っているときだとよく言うが、ここまで不快指数が高いと、そのことで頭がいっぱいになると、俺は思った。
 そうやってだらだらとしゃべり続けていたら、いつのまにか午後の授業の開始10分前になっていた。そろそろ自分の教室に戻って次の授業の準備をしなければと思って、下敷きを友人に返したときだった。その子が、3人かそこらで集まって、教室に入ってきた。色白で、ショートカットのきれいな黒髪が似合っていた。髪色と似た黒目勝ちの大きな瞳、控えめの音量で笑った笑顔。唇の端にできるえくぼがその可愛らしさに花を添える。その子を見て固まった僕の横を通りすぎる。身長は低めだ。150センチ台前半だろう。
「天使だ。天使」
 俺は思わず、そうつぶやいていた。「実は羽があるかもしれない」と思って背中をチラリと見たのは内緒だ。

 それからというもの、友人のクラスにはよく遊びに行くようになった。といっても、うちの学校は昼休み以外は基本的に休みらしい休みをとるほどの時間は無かったし、件の天使はほとんど食堂に行ってお昼を食べていたので、帰ってきてから数分間しか同じ教室にはいないのだが、天使というのはただ笑って存在するだけで、人を幸せにするから天使なのである。つまり俺は、一瞬顔が見れるだけで、幸せだった。ちなみに、食堂は明らかに学生を受け入れるだけのキャパシティを備えておらず、毎日かなり混むので、流石に行く気にはならなかった。
 あんなに混んでいる食堂で毎日ご飯を食べられるのは、天使だからこそだろう。きっとみんなが席を空けてくれるのだ。

 天使を初めて見た衝撃は、高校生活で二番目に強い衝撃だった。
 1番は、そのあと、3年に上がった始業式の日だった。なぜか思いもよらなかったのだが、天使と同じクラスになったのである。しかも、しかもだ、最初の席が、隣であった。自分の出席番号に、苗字のはじめの「成」に人生でもっとも感謝したのは、その日だろう。今後これ以上感謝することも、たぶん無い。
 しかし、その日担任の教師が放った言葉は、無情だった。
「明日、席替えするんで、そのつもりでいてください」
 教室は歓喜の声に包まれる。経験上、その席が考えうる限りの最高の状態でもなければ、学生はみな、席替えというものが大好きだ。そして考えうる限り最高の状態というのは、12年間に1度あるかないか。だから、基本的に、席替えをするというのは、教師の優しさであるのだが。俺は3度のオリンピックが開催される時間の中で、もっとも幸せなタイミングが1日で終わってしまうということに、しょげた。

 天使は、神様に愛されている。
 神様に嫌われた天使はたぶん消されるんだろう、俺たちが目にする天使はすべて、等しく愛されている。と思う。少なくとも人間よりは、ずっと。
 実は、俺も天使なのかもしれない。
 ――席替えの結果、天使の後ろになった。しかも、教室の一番後ろだ。
 その一ヶ月は、本当に幸せだった。別に、いわゆるストーカーのような気持ち悪い視線を送っていたわけでは断じて、ない。ただ、天使が授業中に分からないところがあるとひとり首ををかしげる仕草であったり、几帳面にノートに色分けするためにペンを持ち変える動作であったり、一日の授業が終わり、重い教材を詰め込んだかばんを持ち上げるときの気合の入れ方であったり、そういった日々の動作が、天使で、癒された。
 
 結局、その一年間では、その一ヶ月以外は近くの席にほとんどならなかったけれど、天使というのは、存在するだけで、目にするだけで、見るだけで、幸せになるものだった。

 神様に、感謝である。

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