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生きて会おう!について

その友人は高校の同級で、裕福とは言えない家で育った。
家族の話をあまりしない人だった。ここから抜け出したい、大きい企業に勤めたい、そのためにいい大学を出なければ、とよく口にしていた(私の学生時代は“自分らしく好きなことで生きる”といったリベラルな言葉が巷にあふれる少し前で、人生の最適解は良い大学を出て良い企業に勤めること、みたいな考えが今よりずっと一般的だった)。

受験期はお金がないからと予備校に通わず、所属していたバスケ部の先輩から譲り受けた赤本を片手に黙々と勉強していた。5人家族で住むアパートに自室はなく、図書館や公民館の自習室に入り浸っていた。
彼は目標通り志望校にストレートで受かった。卒業後は、就活の経験がなく知識の浅い私でも知っているような有名な企業に就職した。



彼は常々、静かに怒っていた。それは周囲の者たちが当たり前に持て余す豊かさへの怒りだった。私たちが通っていた高校はいわゆる進学校で(とはいえそこまでのレベルではない公立)、有名大学を目指して一年次から予備校に通う者がちらほらいた。その中には親に強いられてしぶしぶといった者も少なからずいて、彼らはいかにして勉学を効率的にさぼるか、その手腕を語ることで望まない苦行の鬱憤を晴らしているようだった。彼はそういう者たちを特に嫌悪していた(私の家の経済状況は良くも悪くも半端だったので、どちらの気持ちもある程度は分かった。つまり裏を返せば分かりきれなかった)。時おり内に秘めた感情が発露し、クラスメイトたちから白い目を向けられることもあった。
彼は周りからの理解を、意思を持って遠ざけているようだった。境遇をわかってもらい優しく肩をたたかれる、といった同情的な連帯を嫌い、拒絶していた。それが強さだと不器用に信じていた。

心の底に据えた信念を、愚直に貫こうとしていた。それを象徴するような出来事が高校三年の時にあったのだけど、とても長くなってしまうし個人的すぎる話なのでまた別の場で書こうと思う。



教養のある大人になりたい、というのが彼の口癖だった。色の褪せた分厚い本をよく読んでいた。一度新橋の古本市に連れ立ったが、彼が目を皿にして探す作家たちの殆どは一世紀近く前に生きた人々で、その名を私は一人として知らなかった。

少し昔の歌をよく聴いていた。私もそうだったので話があった。そういえば仲良くなった理由も同じシンガーソングライターが好きだったからだ。そのミュージシャンの歌詞は世間への青い憤りに満ちていて、若い二人は痛く共感した。心酔にも似ていた。私はその頃には作曲をはじめていたので、こんな曲を一緒につくろう、あなたに歌詞を書いてほしいと頼んだ。
二日後には書き上げられた彼の詩をもとにできた曲は、あの曲は、なんだろうな。青春とか思い出とかそういう類の言葉じゃ表せなくて、それはあの頃の私たち、ただそのままの私たちだった。決して大袈裟じゃなくそう思う。もう随分前から歌わなくなってしまったけど、いまも大切な曲だよ。



彼が大学に通い就職が決まるまでの、その頃の私は、臨床心理士になることを諦めて大学を辞め(まともに働けないと判断せざる負えない理由がいくつかあった)、本格的にはじめたバンドも解散を繰り返し、その後一人ではじめた音楽活動もほんの1、2回弾き語りライブに出たくらいで、以降は曲もつくらず漫然と過ごしていた。

最低賃金以下のバイト先とせまっ苦しい畳の部屋を往復する生活。バイトのない日はひたすら長編小説を読み、数年後の将来と数ヶ月後の家賃への不安にめくったページの枚数分だけ蓋をする。日中は外出する気になれず、世界中が眠っているような静かな夜にだけそっと玄関の戸を開けた。人々が闊歩する太陽の元を歩くことは後ろめたくて出来なかった。上手く生きられない劣等感にまみれた自分を、音も光もない場所に隠したかったのかもしれない。

そんな体たらくの私に、彼は叱咤激励を繰り返した。交友関係や行動範囲を極端にせばめていた当時の私を根気よく街に誘い出しては、繋がりをつくれ、輪を広げて活動にいかせ、音楽の仕事につく大学の友人がいるから紹介するよ、お前はもっとやれるはずなんだから、などと発破をかけた。彼の言葉に応えられないもどかしさと情けなさ故か、次第に彼を疎ましく思うようになり、何かと理由をつけては誘いを断るようになった。



ある午後、久しぶりに顔を合わせた私たちは調布のフルーツパーラーで背の高いパフェをつつきながら、積もった近況報告をしていた。私は相変わらずの生活をしていたから特段話すこともなく、まぁなんとかやってるよなんて適当を言いながら相手のことばかり聞いていた。来週からいよいよ出勤なんだ、おれは稼ぐぞと彼は意気込んでいた。そっか、がんばれ、私もがんばる、そう言って駅前で別れた。

その日以降、私は彼からの連絡を返さなくなった。





未読のメッセージが溜まっていった。何度か着信があった。「おれは、会いたいよ」という言葉を最後に、もう何も届かなくなった。
数ヶ月後に彼のLINEを消して、電話番号も全て消した。





まっとうな人だった。そのまっとうさが私には眩しかった。大学受かったよって喜ぶ顔も、内定もらったんだって誇らしげな声も、全部自分事のように嬉しいのに、なのに苦しかった。一つまた一つと彼が目標に辿り着くたび、のたうつ葛藤を押し殺しておめでとうと笑った。

「お互いこれからも、力を尽くして生きよう」
彼の大好きな映画から借りたその言葉を投げかけられる度、そうだねって返しながら、あなたとはなにもかも違うんだよ、どうしてわかんないのかなって思ってた。物陰に閉じこもる私とは正反対に、日向へ向かう彼の姿から目を逸らしたかった。そのまっすぐ声から耳を塞ぎたかった。
だから、断ち切った。

それから数年が経った、ちょうど去年の夏ごろ。今はもう更新していない弾き語りのYouTubeチャンネルに、一つのコメントがついた。その動画は泥酔した私がくだを巻くという酷い内容だった。いつも通り今生に絶望した私が、一人河川敷の草むらでやけ酒を飲んでいた夜更けに思いつきで撮りはじめた動画。それまでの弾き語りではぼやかしてた顔をスマホのインカメではっきりうつしながら、空き缶を片手にケラケラ笑ってくだらない自嘲をする、とても見るに耐えない映像。
誰も見てやしないと思ったのに、みっともない姿を晒してしまったと反省しながらコメント欄を開くと「おれは抜け出した。でかい家に住んだ。遊びにこいよ」とぶっきらぼうな口調の文があった。なんだこれ…よくわからないけど、そういうネタなのかな…と困惑しつつ「じゃあ、いまから行くね〜!」なんて冗談として返した。

数日後、なんの気なしに動画を見返すと例のコメントは消えていた。なんだったんだろうと少し考えて、突然ピンと来た。あれは、彼だ。どこで私のYouTubeを知ったんだろう。ああ、同じクラスだったあの子が話したのかな、いや、それよりなぜすぐに気づかなかったのか。後悔の念におそわれて居ても立ってもいられず、真っ白なコメント欄に「〇〇ですか?気づかなくてごめん」と書き込んだ。他の人も見れちゃうけどあだ名だから大丈夫だろう、彼は気づくかな、もう見てないかな、私からの適当な返事に幻滅してすぐに消したのかもしれないし、間に合わなかったかな。あれこれ考えながらしばらくそわそわしていた。
しかし時間が経つにつれ冷静になり、書き込みを削除した。たとえ私の呼びかけに彼が気づいたとして、それでどうなる?あれだけ拒んでおいて、何食わぬ顔で交友の再興を持ちかける?そんなこと許されるはずがない。臆病な私にできるわけもない。なにが「気づかなくてごめん」だよ。もっと先に謝るべきことがだろう。とはいえ謝ったって受け入れてもらえるかもわからない。今更なんだと軽蔑され、鼻で笑われても仕方がない。それなら、別にこれで良かったじゃないか。糸はちぎれたままで。花は枯らしたままで。

ああ、でも、だけど、あれが彼にまた会える唯一の機会だったのかもしれない。しかしどうして彼はもう一度連絡をくれたんだろう。あれから何年も経ってるのに。そんなあれこれがぐちゃぐちゃと頭の中を掻き乱し、考え疲れた私は動画を非公開にした。これでもうコメントは打てない。誰も見ない。悩むのはやめにしよう。



非公開にした翌日の夜、改めてきちんと見返したその動画の末尾で、画面の中の私はふらつきながらこう言っていた。

「こんなのを最後まで見てくれてる人、もしもいるならありがとう。色々しんどいけどね、がんばるしかないね。そうだ!見てくれてる人、あなただよ、あなた!いつかね、いつか、生きて会おう!」

きっとこれだった。彼はこの言葉に応えてくれたのだった。
それならば、いつか、胸に焦げ付いた劣等感や寄る辺ない不安、どうしたって上手く生きられない虚しさを受け入れられたならば、その時は。そんな日が本当に来るのかわからないけど、だけどそれまで私は力を尽くして生きるよ。
だから、いつか。

身勝手でごめんね。



そうやってできた歌です。



特定的な文にならないようフェイクを折り混ぜて書いたけど、結局ほとんど実話になってしまった。多くの創作者と同じように、私はこの先も自らを切り売りして文を書き、曲をつくるのだと思う。傷つけた誰かの記憶を切って、傷ついた自分の心を切って、腕も喉も売っぱらって、何も書けず何も歌えず、何も感じなくなるまで。
その行く末に身を窮するのだとすれば、きっと相応しい罪科なんじゃないか。



最後に、楽曲を公開するにあたって素晴らしい歌声で豊かな情感を加えてくださったしゃもさん、素敵なアニメーションで作品世界を広げてくださった地味な海。さん、心に突き刺さるバンドサウンドに仕上げてくださったサウンドエンジニアののいずさん、みなさんのおかげでこの作品がつくれました。本当にありがとうございました。

そしてこの歌を聴いてくださった皆様に大きな感謝を。拙い私の音楽が、救えない私自身が、まだ世界に残される意味を与えてくれてありがとう。

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