ゴジラ-1.0 あの行為の意味(ネタバレ注意!)
ゴジラ生誕70周年記念作品として制作され、日本中そして世界をも魅了した
「ゴジラ-1.0」
(コロッセオで丸まって寝る方のゴジラも。)
筆者はモノクロ版・コメンタリー含めて4回鑑賞しました。
率直に感想を申し上げますと
「実家に戻ってきた様な安心感。」
1954年の第一作(初代ゴジラ)、1984年版(84ゴジラ)、84版からの続編となるVSシリーズを好む筆者としては、エンドロール後には
「あんたはアニメより実写に限るぜ、ゴジラさん。」
と、ある種の安堵感を抱いていました。
※筆者個人の勝手な価値観です。アニメーションでしかできない設定・表現があるのは承知してますので、アニメ作品の否定・批判ではない旨ご了承下さい。
個人的に、展開としては意外に正統派というか王道な展開のゴジラ作品という印象でした。
過去作で言えば初代ゴジラのストーリーに近しい流れ。
日本政府がまともに機能してないのも共通
(芹沢博士とオキシジェン・デストロイアーの件も事実上民間と言っていいでしょう)。
ただ、肝心のゴジラの銀座襲撃→壊滅シーンは
視覚的には派手な一方、
「終戦からの復興、その道程がどれだけ過酷だったか」の掘り下げが甘く感じられ
典子の「銀座も復興が進んでるんですよ。」の一言だけで銀座の街を出されて、ゴジラに破壊されても
「無から負」という説得力にはいささか乏しい。」
海上での新生丸や重巡高雄への襲撃シーンが酷く恐ろしかったのも相まって、あの場面には
「絶望」
として感情移入する事は筆者は出来ませんでした。
初代ゴジラの東京襲撃シーンで、戦争で夫を失くしたと思われる女性が、抱きかかえる子供に
「もうすぐお父ちゃんのところへ行けるからね。」と、業火に包まれる街の中で恐怖に震えながら言う場面。
あれに勝る「絶望」は、今作含めて筆者はまだ見たことがありません。
マイナスカラー版(モノクロ)の存在はとても嬉しいサプライズでした。
発表当時「予告はカラーだけど実はモノクロ上映なんじゃね?」と勘ぐってたくらいですから
(シン・ゴジラ:オルソが発表されて余計に期待した。そんなことはなく普通にカラーだった)。
そして、恐らくゴジラ史上初めて正式なキャラクター表記の
「呉爾羅」
が出現して、大戸島で人間を咥え捨てて暴れ回る姿は
「70年目のターニングポイント」であり、筆者が最も「恐怖」を感じたシーンです。
さて、この記事の見出しにある
「あの行為」についてですが、それは・・・
海神作戦と敷島の震電による口内への突撃により崩壊し海中に沈んでいくゴジラへ
海神作戦の参加者が敬礼するシーン。
このシーンについて
筆者が一回目に見た時の視点でその意味を探ると
「敬礼した事に特に意味など無い。」
という結論に至りました。何故かと言うと
ゴジラは人知を超えた存在であり、その脅威に畏怖した「だけ」の人間では
思考回路は何も考える事を許されず
ただ深層心理だけが敬礼を促した。
実際、作戦の第二段階により深海1500メートルから海上に浮上させられ
急激な加圧のダメージで満身創痍になりながらも
殺意に満ちた狂気の眼で
終末の熱線を放とうとするゴジラに
野田博士、堀田艦長を始めとする作戦参加者は
「絶望」を通り越した
「虚無」の表情をしていた。
そこに生気など存在しなかった・・・
ただ、一人を除いて。
大戸島で心に深い傷を負わされた「恐怖。」
幼い明子の未来を守る「決意。」
そして・・・
その明子を連れてきた、そして自分にとっての「明日」になるはずだった典子を殺された
悲しみ・怒りに滾る「殺意。」
ゴジラを、神を葬った敷島浩一は敬礼をしなかった。
彼だけは抗えないはずの畏怖に抗い、掻き消した。
生きるために。
あくまで一回目の鑑賞直後の個人の考察ですが、自分の目にはあのシーンがそう映ったのです。
二回目の鑑賞がマイナスカラー版だったのですが、モノクロ加工により終戦直後の世界線という
視覚的な解像度が上がった事で
自分の考察はよりはっきりしたモノになりました。
※あくまで当時の筆者の私見・感想である事はご理解下さい
ゴジラ駆逐後の日本がその後どうなっていったのか
敷島の戦争は本当に終わったのか
想像はつきませんが
全てのゴジラ映画に共通している事は
「一度現れた世界線から
ゴジラが滅び去ることは決して無い。」
ご覧いただいた皆様、ありがとうございました。