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20240919

 大竹まことさんの近頃の愉しみは「立ち眩み」だそうだ(9月18日ゴールデンラジオより)。「立ち眩みってね、意外と気持ちいいんだよ」もしも自己紹介の趣味欄に「立ち眩み」と書いたら、どんな変わり者かと訝られるだろうけれど、目眩が気持ちいい、というのはとても判る気がした。格闘技を習っていたラッパーの友達がよく「(頸動脈を絞められて)落ちるのが気持ちいい」と言っていたのを思い出す。

 小学6年の頃、授業中に座ったまま立ち眩み(ってなんか変だけど)に襲われた、お習字の時間だった。気がつくと教室に満ちていたクラスメイトの声が徐々に聞こえなくなって、代わりに「キーン」という耳鳴りに包まれる。これはおかしいな、と思って先生に駆け寄るも、すんでところで立てなくなる。視界がすっと白けていけば、これ以上ないというほど明るくて白い場所にいる。走馬灯が流れる直前の、タイトルコールだけ先に見てしまったような居心地。気持ちが悪いというべきなのに、そうは思い切れない悦楽の芽があった。

 ここで眠ってはいけないと分かりながら、睡魔と闘うのも幾らか辛(ツラ)持ちいいとでも言うのか、立ち眩みの愉しみと同じではないにしても近しいものを感じる。ちょっとしたマゾヒズムだろうか。フロイト先生に相談すれば「それは〈快原理の彼岸〉というやつですね」とかいって自説をときはじめるのかも知れない。そんな闘いにはとうに敗北し、図書館のイスでグースカ眠っているひともいるにはいるのだけれど。あんな静かで冷房も効いた場所にいれば、眠くならない方がおかしい。

 おそらく、フィッツジェラルドの想像力に最も大きな影響を与え、彼がこのような芸術的目的を達成する手助けになった作品は、T・S・エリオットの『荒地』であろう。...略。しかし「荒地」が一種の物語的共鳴、文体的反響、連続する言語パターンを活用しており、こうしたものがこの詩のカ━読者が意識的に再創造するというよりも直観的に感じとるカ━を産みだすのに大いに貢献していること、これを理解することも同様に重要である。フィッツジェラルドが一種の詩的な小説━『荒地』の散文的等価物━を書こうと決心したとたん、彼は自らの技巧の全感覚を支配するような言語システムに閉じ込められてしまったのだ。

リチャード・リーハン著『F・スコット・フィッツジェラルド「グレートギャツビー」を読む 夢の限界』(p217)

 『グレートギャツビー』を読みながら漠然と感覚していたデジャブの正体が、フィッツジェラルドの詩的な散文はエリオットの『荒地 the wast land』から来るものではないか、という指摘によって腑に落ちた。『荒地』に触発されて生まれた作品として第一に有名なのはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(あるいは後『フィネガンズ・ウェイク』)だ。アイルランドのジョイス、アメリカのフィッツジェラルド。そしてもちろん日本の〈荒地派〉詩人(田村隆一、鮎川信夫...etc)たち。そうであればジョイスとフィッツジェラルドと田村隆一は、同じ産湯に浸かっていた乳兄弟といってもいいかも知れない。どんな三兄弟だよ、付き合いづらそうですね。


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