大切なものが目に見えない理由
人の心って宇宙みたいだなってつくづく思う。
喜びも悲しみも上限が無くて、自分が人生で一番楽しかった日だなと思えたのが2012年に行われたサマーソニックって夏フェスに初めて一人で行ったときのことだ。
YUIさんに出会えて、アヴリルラヴィーンにも出会えて、このときは社会人だったが、高校生のときにブログを通して知りあった顔も名前も知らない同じYUIファンの友だちにも出会えた日。
こんなにも幸せな日はないと思っていたのだが、その翌年の9月に群馬で行われたフェス NEW ACOUSTIC CAMPで幸せの日を更新したのだ。
中学生のころから大好きなYUIさんがソロ活動からFLOWER FLOWERという名のバンドで活動することになり、その日も出演をしていた。
ライブの時間もとても幸せな時間だったが、終わった後に芝生で寝ていたら「yuiさんがいるよ!」と一緒に見に来ていた友だちに呼び起され、憧れのyuiさんにご挨拶できたのだ。
帰りの車の助手席でしっぽりと泣いたなぁ(笑)
幸せの更新を重ねるたびに、生きていてよかったと思える夜がいくつもあるものだと知った。
同時に、人生で一番幸せな瞬間はまだ遥か遠い未来にあるのかなと思ったりもした。
嬉しいことがあれば反対に、生きていると悲しいことや寂しいこともいくつもあるわけだ。
YUIさんが活動休止になるたびに寂しい気持ちになって、ソロ活動として歌えなくなったと聞いた日には悲しくて涙が止まらなかった。
音楽が好き嫌いの次元じゃなくなってしまっていたんだ。
新曲が生まれ、我々音楽ファンの耳に届いたときには心がギュッとなり、生歌で聴いた日には、目から涙がポタリと地面に落ちたと思ったらまた目から溢れ出る涙のリレーですよ。大変なんです。コロナ禍なんてマスクビショビショになりますから。濡れおかきみたいな感じで、あれ?買ったのびしょ濡れマスクだったかな?なんて軽く混乱するレベル。
勿論、生きている日常でも友だち、家族との別れなんてこれ以上にない悲しみを背負うことになる。
今の日常があるのは、自分以外の誰かの見えない愛情があるから作られているんだなと気づくきっかけではあるのだけれども。
何が言いたいかって、人の心が宇宙のように無限に広がっているからこそ
また悲しい気持ちに襲われる日だってそれはあるのだが、今まで出会った大切なものでできている心の核。
大切が人の身体の真ん中にある心根に染み込んで、少しずつ成長すると共に出来上がっていく。
大切がなくなるたびにぽっかりと穴が空いちゃったりもして、こんなにも大切だったんだなと気づく。
そして、その心の核はいくつもの愛に触れて、これから出会う大切で明日も作られていくということ。
ずっと前までは、あなたがいない世の中で生きていけるほど強くないと思っていたけど、あなたと出会ってできた心の核があるから、きっとこれからも生きていける。
そう思えたのなら、きっと愛をくれた人も喜んでくれるんじゃないかと思う。
ライブを見に行って幾度となく涙したさユりちゃんとのお別れや、同じファンの方のXでの投稿、tacicaの新曲「物云わぬ物怪」を聴いて、大切なものが目に見えない理由を考えてなんか書きたくなった。
「かんんじんなことは目には見えないんだよ」
フランスの作家・飛行士のサン=テグジュペリ作「星の王子さま」の一節にもある言葉。
目に見えるものばかりに心を奪われてしまうと、そこに存在する物や数値ばかりを追い求めて、自分や自分たちを含む国にとって損得を考える自己中心的な物事の見方をしてしまい、争いごとに発展してしまうのだろうな。
だからこそ、何が大切かを見極める心を持たせるために
大切なものは目に見えなかったりするのだろうか。
好きな音楽、好きな映画、好きな小説、会えなくなった人、あの日の思い出
人の心や、人の心が生み出したモノに触れた瞬間に心がギュッとなって
核が作られていく。
その核に守られながらも、最後にはまた同じ場所に行き着くと信じたい。
同じ音楽好きだからわかる。
前向きになれる人もいれば、立ち上がれない人もいると思うけれど、負けてほしくないな。
友だちが言っていた「好きな人を思い出した分、その人の居る場所に花が咲けばいいな」
本当にその通りだと思うなぁ。
だから、思い出しながらまた歩いていけたらいいなと願う。いい音楽だねって仲間と話したりしてね。
心があたたかくなる大好きな曲を添えておきます。