
猫を画いて月にも似ず 【実のない話・2105字】
久しぶりにデートにこぎつけた男とレストランでの食事を楽しんでいたN子は、この男がはなった前置きのないある言葉をきっかけにして、落ち着きを失った。
「猫って、かわいいですよね」
「え? ええ。そうですね。かわいいですね」
猫。
「今度、猫を見に行きませんか。僕、飼ってみたいと思っているんですよ」
「ああ、そうなんですね。ぜひご一緒したいわ」
「あっ、本当ですか。よかった。いやあ、それはうれしいなあ。じゃあ今度、猫を見に行きましょう」
「ええ。ぜひ」
──(N子、心の声)え? 猫? なんでなんで? 猫? 急に来た。急に来ましたよ。猫の意味するところは何? 猫、猫、猫・・・。はっ!
N子はこのとき、思い出したのだ。ウサギ。
──(N子、心の声)フラッシュバックウサギ! ああ、この展開はあれを思い出させるわ。やっとデートにこぎつけた殿方とお食事をしていたら、そのお方、いきなり「ウサギを飼ってみたい」って言い出したのよ。何の脈絡もなしにあまりに急に言いだしたものだから、ウサギが頭の中をピョコピョコ跳ね回っちゃって私はもうどうしていいか分からずに、ああー。あれからもう1年経ったってこと?! がー! はやい! 1年、はやい! はやすぎる! がー!
「N子さん、どうしました?」
「え、あ、あの、かわいいですよね、猫」
──(N子、心の声)どうしよう。ウサギのときはいろいろ変に詮索してしまって失敗したのよね。もう余計な深読みはやめましょう。猫は、ただ、猫なのよ。それでいいのよ。でも、どうしましょう。犬じゃなくて猫なのが気になる。「犬じゃなくて、猫なんですね」って聞いたら角が立つかしら。
「かわいいですよね、猫。僕、犬は子どもの頃に飼っていたことがあって、犬も大好きなんですよ。でも、どうしても毎日の散歩とか考えると、一人だとちょっと大変かなと思ってて。猫なら楽だ、とは思いませんけど、最近、猫の動画とか見てたら、猫いいなあって」
「そうなんですね」
──(N子、心の声)なるほど。そうだったのね。猫派というわけではなくて犬も好きなのね。猫さん、人気だものね。人気といえばウサギも人気だけど、猫なのね。
「あ、僕ね、ウサギもかわいいなあと思ってるんですよ。動画とか見てると、もうほんと、かわいいなあって」
「そうですね。ウサギもかわいいですよね」
──(N子、心の声)ふーん、動物全般好きなのかな。
「僕、動物みんな好きなんですよね。あ、でも、虫は苦手なんですけどね」
「私もそこ同じです。虫は苦手。だけど、動物は私もだいたい好きです」
──(N子、心の声)虫は苦手だわー。あれ? 細かいこと言うと、虫も動物だな。
「あ、N子さんも虫苦手ですか。一緒ですね。あ、細かいこと言っちゃうと、虫も動物でしたね」
「ええ、そうですね」
──(N子、心の声)S郎さん、すごく笑っておられる。
「すみません、変なとこで笑いすぎですよね、僕」
「いえいえ」
──(N子、心の声)ていうか、さっきから私の心の声、読まれてる?
「どうしました?」
──(N子、心の声)おごって。
「N子さん?」
「ああ、ごめんなさい。あの、S郎さんは、どんな猫さんが好きなんですか。マルチキン?」
「マルチキン? マンチカンのことですか」
「ああ、そうです。はい。マンチカン」
「マンチカンもかわいいけど、違うなあ」
「あ、じゃあ、メキシカンショートヘアかな?」
「それを言うなら、アメリカンショートヘアです。隣です。アメショーもかわいいけど、違います」
「じゃあ、シコティッシュフィールド?」
「N子さん、それどんなフィールドですか。スコティッシュフォールドですよ」
「やだ、ごめんなさい」
──(N子、心の声)冗談のチョイスを間違えたようね。S郎さん、ちっとも笑ってくださらない。
「僕はね、そういう猫さんたちもかわいくて大好きなんですけど、保護猫の里親になりたいなって思ってるんですよ」
「あ、そうなんですね。保護猫」
「はい。いろいろ思うところがあって、保護猫の里親になりたいんです。まあ、でも、ちょっとだけ欲を言っちゃうと、黒猫と出会えたらいいなと思ってるんです」
「へー。黒猫」
──(N子、心の声)黒猫? なぜに?
「なんでかって言うとね、黒猫って、いろいろあるじゃないですか?」
「いろいろ?」
「良い歴史だったり、悲しい歴史だったり。そういうところに惹かれるんです。僕、人間の思考の構造に興味があって。あとはエドガー・アラン・ポーの影響もあるかな」
「江戸川乱歩?」
「エドガー・アラン・ポーです。『黒猫』っていう作品があって、すごく好きなんですよね」
「へー。そうなんですね」
S郎は黒猫について語り始めた。それは店員がラストオーダーを告げにくるまで続いた。
「N子さん、どうしました?」
「いえ。なんでもないです」
──(N子、心の声)・・・。
帰り道、月明かりが落とす影に気付いて、N子は空を見上げた。中秋の名月、空にはまんまる大きな月が照っている。まるで、ウサギを見つめる黒猫の片目のようだと、N子は思った。
「帰ったらおだんご食べよぅ・・・」
N子が引きずって歩く影には猫の尾もウサギの耳もなく、ただ背中を丸めて歩くしょぼくれた女のそれでしかなかったのだった。
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