田中頼三は、大東亜戦争中の厳しい評価から一転、戦後になって「名将」として評価をされるようになった。そのきっかけとなったのが、アメリカ人2人による田中に対しての…
前回は田中頼三の経歴を、他の水雷戦隊司令官となった同期と比較をした。 今回は、田中の海軍兵学校卒業後以降の海軍内部での序列の変遷を見ていく。 海軍では「ハ…
田中頼三は巷間「生粋の駆逐艦乗り」「生粋の水雷屋」と言われている。また戦後は日本国内だけでなく、敵対したアメリカからも高く評価されている。しかし戦時中は中…
みきひでき
2024年9月22日 01:46
田中頼三は、大東亜戦争中の厳しい評価から一転、戦後になって「名将」として評価をされるようになった。そのきっかけとなったのが、アメリカ人2人による田中に対しての称賛からであった。 その2人のアメリカ人とは、1人はハンソン・W・ボールドウィン、もう1人は日本でも有名なサミュエル・E・モリソンである。この両者は、ともに戦後、米軍に対する第二次世界大戦での戦訓・教訓を伝えようとして、書籍や投稿記事内
2024年9月14日 23:53
前回は田中頼三の経歴を、他の水雷戦隊司令官となった同期と比較をした。 今回は、田中の海軍兵学校卒業後以降の海軍内部での序列の変遷を見ていく。 海軍では「ハンモックナンバー」いう序列があった。これは海軍兵学校卒業時の成績に基づく席次のことを指すもので、卒業後は海兵同期間の先任順位の目安とされていた。 この「ハンモックナンバー」は、海軍兵学校卒業後の海軍将校たちの将来を確定してしまうものと思
2024年9月8日 16:21
田中頼三は巷間「生粋の駆逐艦乗り」「生粋の水雷屋」と言われている。また戦後は日本国内だけでなく、敵対したアメリカからも高く評価されている。しかし戦時中は中央から消極的だと批判されており、このことから、ガダルカナル攻防戦最終盤に水雷戦隊司令官を更迭され、それ以後ついに終戦まで海上に出る事はなかった。 戦後、田中への再評価が敵対したアメリカ側で行われ、それをきっかけに日本国内でも同様