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音は色彩 人工内耳だからこそ思うこと、"あたりまえ"とは?

僕は2歳の時から、20年以上人工内耳をしている。
お腹の中にいた時は聞こえていたけど、言葉を知らない頃の話。
後天性難聴者のはずなのに、"生まれつき"と言った方がしっくりくるほど健聴者としての記憶がない。

それでも、僕は聞こえない世界と聞こえる世界。
ふたつの世界を持てる、この聞こえ方が好きだ。

無音の世界から、色彩ある世界を聞く時、ふわっとした風を感じる。
すべての音が爆音となって、なんの音か処理が追い付かないあの瞬間が好きなのだ。

何も知らないところから、とんでもない閃きが起きたかような衝撃。
孤立した世界から解き放たれた、世界との一体感を感じられるのだ。

人工内耳は、全くの無音の世界と難聴者の世界を行き来できる、聞こえ方が極端なのが特徴だ。
とはいえ、健聴者ほど聞こえるわけでもなく、完全に器械頼りである。例えるならば、zoomや電話越しの雑音を大きく拾ってしまい、声や音が聞こえにくいタイプ。

そんな人工内耳なのだが、音を聞く度に僕はこう思う。


ああ、聞こえるっていいな
話し声も、車の音も、風の音だって聞こえる
どこまでも音は続いていて
眠らない街があるように
眠らない音の世界なんだろう

だけど、聞こえない世界も好きだ
色はそれほどないけど
わずかな振動や光で反応できる
穏やかで、何にも邪魔されない
落ち着く空間

体内を血が駆け巡るゴォーっと低い音
微細な電気が流れる高い音
耳が聞こえないからこそ
内側の音ははっきり聞こえるんだ

音の世界は
どこまでも飽和していて
健聴者はこれが"あたりまえ"なんだろうな

この"あたりまえ"は
僕の目が見えてる"あたりまえ"と
そう変わらない

障がいがあっても無くても
"あたりまえ"は
どこにでも潜んだ色メガネだ

僕は難聴者だから
音が切り口で
音のすばらしさを知った

みんなは何を切り口に
世界のすばらしさを知るんだろう


──こんなことを常々思ってる。
時には、いつもと変わらない日常なのに、音の温かさに触れて泣きたくなってしまう。

欠点があるからといって、何もかもがダメになるわけじゃない。欠けたことで、別の五感が強くなったり、経験豊富な人間になれる。

障がいは分かりやすい形だけど、障がいを持ってない人でも、例えば計算が苦手とか。そんな欠点があれば、もしかしたら文章力が強いかもしれない。

そんなパラメーターの中で生きられるのなら、どんな形であれ、悪いものなんて、ひとつもないんだろう。

いつも近くにある"あたりまえ"
大切に抱えて
色んな世界を渡り歩きたい

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