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11.14 見かけ倒しのサンドウィッチ

 いつもより早起きしてサンドウィッチとレッドブルをいただくも、サンドウィッチの具材の少なさにビビる。見えてる部分は具だくさんだったのに!レッドブルなんか普段飲まないけれど、数十分後に控えた授業での「映像を見てのテスト」に備えて醒めを。
指定された席に着座してしばらくすると、「映像の世紀」が、メインテーマ”パリは燃えているか”と共に上映が始まる。人間の業の凄惨さを重厚に表すほどに浮き出る、荘厳な美しい主旋律がカフェインと共に巡るのを感じる。脳が刺激され、次に心臓が血を巡らせまた醒める脳、高まる動悸。
今思えば、思春期の頃の自分はカフェイン中毒だった。当時は、コーラを飲むと何故か胸がドキドキして、その状態で音楽を聴くとどうしようもなく感傷的になり(カフェイン中毒のバクバクと感傷的のバクバクを混同していた)「今、まさに生きている」と喜びを感じていた。あの頃はヴァイオリンの音色が一番胸に刺さっていた。当時、父が車で流すブルーハーツに目もくれなかった私が彼らに熱狂するきっかけになったのも、「1001のバイオリン」というストリングスアレンジされた楽曲だった。

窓から入り込んだ秋の日光には焦点がなく、空気と混じってスクリーンを薄くフェードさせていたため、ナチスを中心に描かれた第二次世界大戦の模様を映すそのフィルム映像はやや見づらかった。それでも瞳孔を開いて映像に集中する。すればするほど、映像の悲惨さに胸が痛む。ナショナリズムを高めるための民族意識や優勢思想。侵略の口実づくりのプロパガンダの流布の様子は、現在の世相ともリンクする。何よりも当時のドイツ国民にとってはそれこそが真実であったこと、常に忘れずに覚えておかなければならない。人間性、民族性の話ではなく、政治と経済の歪みの話だ。
このテストでは常に映像と音声に集中しなければ問題を解くことができず、そこに意義がある。第二次世界大戦とナチスという、屈指の凄惨な歴史から目を背けることができないのだ。

舞台は日本とアメリカに移り変わる。つまりは第二次世界大戦の終結であり、それはテストを受ける学生たちにとっては残酷な映像からの解放だ。
B-29が映し出される。想像していたよりも丸っこくて愛らしいフォルムは、青というよりブルーな海と空を背に飛び立つ。その映像はそれまでのどの映像と比べても、カラーもコントラストも段違いに過剰に明瞭だった。文脈とは切り離され、ただただそのブルーの美しさにうっとりする自分と、その後の悲劇について考える自分が同時にいたように思う。

家に帰りながらandymoriのモンゴロイドブルースを聴いた。この曲はナショナリズムの荒唐無稽さを陽気で愉快に歌っている。
全ては常に違うものに変わる。その中で何かを決めつけるということは目を逸らすということだ。そうすることでしか世界と関われない僕たちの中身は生きて死ぬだけ。すべてが見せかけで見かけ倒しの世界で、それでも愛し命を繋いできた人類の歴史がどうかグレートジャーニーであれ!


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